「桐島、部活やめるってよ」 朝井リョウ 著


高校生活のある瞬間、ある人々が放つ「ひかり」に気づいた瞬間、「スクールカースト」や「みんな同じ」は崩壊し、宏樹はそれまでとは違った瞳で世界を眺める。この本は1人の男の子の中で、まさに世界が一変する瞬間を描いた作品なのだ。

小学校低学年の頃、ある日、母が私の目の前にどん、と本の山を置いて「これ、近所の◯◯さんにもらったよ」と言った。
心当たりのない名前に「なんで?」と聞くと、母は「いつも本を読みながら家の前の道を歩いてる女の子を見て『あの子にあげよう』と思ったんだって」と答えた。
今でも、その時の驚きを覚えている。
だけど、驚いたのは、見ず知らずの方から本を譲ってもらったからではなかった。


私にとってその時まで世界は、私の家族、私の友だち、私の本、私の学校、私の通学路…ほぼすべてが「私の◯◯」で出来上がっていた。
ところが、「私の通学路」は、実は「誰かの家の前の道」で、本を読む私は、誰かにとっての「家の前を歩き読みしてるあの子」だったのだ!
つまりそれは、私以外の他の人から見た別の「世界」が存在するということ、同じものに人の数だけ異なる意味が重なっているということ。
それは足場がぐらりと崩れるほどの大きな驚きだった。


さて、本書は「何者」で直木賞を受賞された朝井リョウさんのデビュー作。
突然、主将を務めていたバレー部を辞めるという桐島くんをめぐる、5人の同級生たちの心うちが描かれている。
題名にもなっている「桐島」くんではあるけれど、桐島くんの存在は一種の記号に近い。
「桐島の不在」という共通のピースによって、それまで安住していた世界が少しずつ崩れ、それに依存していた者たちの中に起こるさざ波(依存度の高い者ほど高い波を受けている)、それがこの作品の見どころだ。


つくづく、高校というのは大変なところだと思う。
それぞれ違う世界を生きている子どもたちを、同じ校舎に押し込め、同じ制服、同じ授業を受けさせ、納得しようがしまいが3年経ったら追い出してしまう。
当の高校生たちも、みんな薄々、それぞれが異なる環境で生きていることを知っていながら、共通の記号(「マジ」とか)やアイテム(「受験」とか「SNS」、「ミサンガ」とか)を使うことで「みんな同じ」であることを装おうとしている。


登場人物の1人宏樹は、「桐島の不在」による高波を受ける1人だ。
彼は、かなりこの世を舐めている。


なんにも成し遂げられなくたって別にいい。たぶん、俺はうまくやっていける。騒ぐのが好きなお洒落で目立つ友達に囲まれてクラスでも一番「上」のグループにいて、運動も全部それなりにできるし、後輩からはかっこいーなんて騒がれてるし、彼女の沙奈だってそれなりにかわいい。


「下」のグループにいる映画部の前田くんたちや、引退もせずに未だに彼に野球部に戻るよう言ってくるキャプテンは、自分のような「上」にいる人間から見るとちょっと残念な人たちだ。
世界はこのまま「上」の連中を中心につまんなく続くんだろう…頭の良い彼は自ら世界を安く見積もっている。
一方で、抑えきれないイライラを抱えながら。


ところで、本書はかなり読まれた本のようで、いくつか紹介文や書評を見たのだが、中に「スクールカーストが描かれた作品」という言葉が目に付いた。
そんな文章を読み、私もなんとなく分かった気になって手を出さずにいたのだけれど、読んだ印象はまるで違った。
この本は1人の男の子の中で、まさに世界が一変する瞬間を描いた作品なのだ。


つまらない高校生活のある瞬間、ある人々が放つ「ひかり」に気づいた瞬間、「スクールカースト」や「みんな同じ」は崩壊し、宏樹はそれまでとは違った瞳で世界を眺める。


きっとキャプテンもそうだった。俺のことをあわれんでいた、あのぼさぼさのまゆ毛の下にあった瞳は、いつまでそんなカバンで登校してきてるんだよ、って、もういいんだよ、って、言ってくれていた。

容姿やスポーツの得意不得意でカーストを作る高校生たち。
だけど、カーストは幸せを約束したりしない。
宏樹のようにカーストが上位であっても、ひかりを持てない者の心もとなさ、寄る辺なさ、寂しさ。
ああ、この寂しさを自覚しないがために、「みんな同じ」でいようとするのか。


さてこのあと宏樹が、どう生きて行くのか。
他人のひかりのまぶしさに背を向けるのか。
自らひかりを放とうとするのか。
それは桐島くんですら放り出そうとしたほど、辛く苦しい道だけど。


宮崎駿監督が引退会見で語っていた。
「この世は生きるに値するんだ」
そう、多分、本当に「好き」なものを見つけた人にとっては。
ぶつかって、苦しんで、悩んで、それでも好きでいられるものを見つけた人にとっては。



桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)