映画「プリズン・サークル」
「プリズン・サークル Prison Circle」(坂上香 監督)というドキュメンタリー映画を観た。
罪を犯した者たちが丸く椅子を並べて、自身の犯した事件について、被害者について、互いに質問し合いながら重い口を開く。
その語りが積み重なるにつれ、彼らが自分の内面に深く深く潜っていることが画面から伝わってくる。
底へ底へと潜った果てに、ついには自分の子ども時代、学校や家庭…特に親との関係について、初めはぽつぽつと…やがて堰を切ったように雄弁に語り始める。
蓋をしていたつらい記憶は聞き手を得て、初めて名前を与えられる。
「虐待」「いじめ」「DV」…。
それらの残酷な仕打ちで、子どもたちの精神がその都度、損ねられていたことが大人になった彼らの姿から伝わってくる。
映画はその語り合いに参加するうちの数人にスポットを当てて、丁寧に、極力批判や解説を加えないまま淡々と彼らの言葉と、時と共に変わりゆく姿を映し続ける。
彼らはそれぞれ詐欺や強盗などの罪を償うためにここに来ている。
しかし彼らの語りから、同時に彼らもまた誰かの理不尽な暴力やいじめの被害者であることが分かってくる。
被害者と加害者という区切りが語り合いの中で混線し越境し、罪を償うというのはどういうことなのか、そもそも罪は償えるのか、許されるものなのか、許されるとしたら一体誰が許すのか、映画を観ている間、そんな問いが何度もぐるぐると頭を回り続けた。
ついには、いじめや虐待、DVを解決できないまま他人事のような顔をしている塀の外の私たちにも罪はあるのではないのかと思い至る。
誰もが多かれ少なかれ背負っている罪は積もり積もって「社会の罪」とも言うべきものとして存在しているのではないかと。
以前(確認したら2013年だった)読んだ「反省させると犯罪者になります」(岡本茂樹 著)という本で、著者は刑務所や少年院で必要なのは、「被害者の身になって」と指導し反省文などを書かせて見せかけの反省を装わせることではなく、加害者に自己の内面を掘り下げさせて自分自身に真正面から向き合わせることだと書いていた。
また加害者に内省と学習を促す、という視点は最近読んだ「ケーキの切れない非行少年たち」(宮口幸治 著)にも共通する提言だった。
それらの主旨に首肯しつつ、一方で当時感じたのは一人一人の内面に向き合うということのしんどさだった。
ひと一人の人生がかかった生き直しの作業を、果たして刑務所や少年院という収容施設でどれだけの予算と時間がかけられるのか、人材や仕組みはどうやって確保するのか…。
その時に浮かんだ疑問の答えは、この映画の中にあった。
そうだ、上から、誰かから指導する、教え諭すという形を想定したから「うわ、それはしんどい。無理」と思ったわけで。
同じように罪を犯した人たちがグループになって円になり、互いに心の奥に仕舞い込んだキズを語り、聴き、それが何だったのかを言葉にしようと共同作業をすることで十分に内省と反省を深めることはできる。
そしてそれを経て、人は初めて「自分」の正体を、「自分」という人間の形を知ることができるのではないか。
正体、それは親や級友に虐められた被害者だった自分、他人を騙し傷つける怪物となってしまった自分。
どちらも同じ自分の一面であり、どちらの自分も助けられるのを待っていることに気づくことができるのではないか。
映画では、かつて刑務所でこの語り合いを行った者たちが刑を終えた後も集まり、また語り合う姿も映される。
刑務所で彼らを支援した人々もそこに加わり、社会に出た彼らの苦しさについて耳を傾ける。
皆笑顔だが、刑務所を出た後も、こうして罪と償いと、そして自らの再生について語り合う。
出所後、また迷いの中にいる仲間にも「ここに来なければダメだよ」と声をかける。
そこでは嘘をつかなくてもいい居場所があるというのは、なんと有り難いことだろう。
そして人生が続くように内省と反省、反省と内省の繰り返しの日々は続く。
真の償いは裁判所にも、刑務所にもなく、自分の中にある。