「ナチスと精神分析官」 ジャック・エル=ハイ 著

人の心は複雑で、悪は数多の顔を持つ

猟奇的な事件が起こるたび、人はその背景を知りたいと思ってしまうようだ。
事件のあと、ネットには犯人の名前や年齢、職業、家族構成などを知りたいという人々が集う。
このような心理を、純粋な好奇心のほかに、犯人が「自分(や周りの人間)とは違う種類の人間」だ、と知って安心したいからと解説するむきもある。
特に残忍な事件であればあるほど、人はそれを犯した人を自分とは無関係の世界の住民にしておきたいのだと。


本書は、ニュルンベルグ裁判に臨むナチスドイツの元高官たちの健康管理と精神鑑定を行ったアメリカ陸軍の精神科医、ダグラス・ケリー大佐と捕虜たちとの交流、そして裁判後のケリーの波乱に満ちた後半生を描いたノンフィクションである。


本書の主なみどころは
あれほど冷酷無比な戦争犯罪と残虐な殺人行為を働いたナチスの元高官たちの性格や気質には、一般人との間に明らかな差異が認められるのか?
「悪」を分析し、その正体に誰よりも迫ったケリーがその後、その経験をもとにどのような人生を歩んだのか?
この2つである。


裁判のため、捕虜として米軍によってニュルンベルグ刑務所に集められたナチスの元高官たちは全部で22人。
野心家であるケリーには、ナチス元高官と一般人との違いを科学的に究明し、将来はその成果を世界に発表し、賞賛と注目を集めたいとの目論見があった。
そのためケリーは精力的に彼らとの交流を深め、ロールシャッハテストをはじめとする心理テストと質疑応答、日常会話と観察の毎日を送る。


この時期のケリーと元高官たちとの交流の中で、ひときわ印象深いのはゲーリングとのそれだ。
ヘルマン・ゲーリングといえば、一時はヒトラーが自分の後継者に指名した人物。
彼は十数個のスーツケースと大きな赤い帽子箱を収容時に持参し、その中には宝石や勲章、アクセサリー、約100万ドル相当の紙幣などが含まれていたという。
所持品の多くは占領国からの戦利品だった。
彼の強烈な個性とリーダーシップ、刑務所や裁判における人心の掌握法と操縦術はケリーの心に大きな印象を与える。
後々、世間の注目を浴び、精力的に活躍した時期のケリーの様子をみると、著者がケリーとゲーリングとの間に数多くの類似点を見出したこともうなずける。

自信過剰で頑固、仕事に打ちこみ、自分に夢中といった性格はふたりともよく似ていた。どちらもそれぞれの分野で頂点を目指し、他人を操る術に長けていた。

刑務所での日々を通じてケリーは、第一の命題、彼らの性格や気質には一般人との間に顕著な差異が見られるのかという疑問に自分なりの結論を導き出す…。


ニュルンベルグ裁判は終わり、それぞれに刑が言い渡され、ある者はそれを受け入れ、ある者は拒否し、ある者は別の世界へと逃避した。
ケリーは祖国アメリカでニュルンベルグでの経験をもとに本を出版。
世間の評判を得たその後、彼が活躍したのは犯罪学という、またも「悪」の深淵を覗き見る分野だった。
この転身は、市警のコンサルタントをはじめとしてカリフォルニア大学バークリー校犯罪学部への転職、TV番組の企画制作、講演活動など彼に高給と名声をもたらす。
家庭には愛する妻と優秀な子どもたちがいた。
ところが彼は人も羨むような境遇の中で、自ら死を選ぶ。
それも、ニュルンベルグ裁判が終了したとき、ゲーリングが選んだ同じ方法で。


本書を読んで思うのは、人の心の複雑さだ。
万華鏡を覗くように、見る角度で、それは全く違う模様を描きだす。
分かりたいと思い、分かった!と思う。
だけど、分かった!と思った瞬間に、実は人はその対象から一番遠のいてしまうのかもしれない。
悪というのは、あまりに簡単に分かってしまってはいけない、分かったと思うその安心にこそ、人はつけ込まれるのだ。


イスラエルアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントナチスの犯した悪を決して個人的な悪ではなく、人類に対する悪だと指摘した。
しかし一方でその悪は「表層的」であり「陳腐」であると表現した。
決して特別な人がかかる理解不能な病気ではなく、普通の人々をカビのように覆ってしまうほどに表層的で、深みのないありふれたもの、だからこそ恐ろしいのだと。
そして彼女はその表層的で陳腐な悪に染まらないための対抗手段は、考えること、異なる立場にいる他者への想像力を持つことだと主張した。
複雑な人の心を、分かった!としてしまわないこと、複雑さを複雑なまま受け入れ、考え抜こうとすることだと。


ネットでどれほど情報を集めようと、人の心の奥底をすべて覗き見ることはできない。
なぜその人がそのような事件を起こしたのか、本当の理由を知ることはできない。
いくら犯人自身が書いたものであっても、そこに真実が書いてあると誰が担保するのだろう?
どの情報を見れば、凶悪な事件を起こした犯人と自分は住む世界が違うと思えるんだろう?
そして同じような環境、同じような境遇、同じタイミングにあたった時に、絶対に自分はそのようなことはしないと断言できるだろうか?

自信を持って、それらの問いに答えられるほど、私は悪を知らない。


ナチスと精神分析官

ナチスと精神分析官