「浪費図鑑 ー悪友たちのないしょ話ー」 劇団雌猫

彼女たちは、それを浪費ではなく「愛」と呼ぶ。

「タガが外れる」という言葉がある。
何かの拍子にリミッターが解除され、欲望や感情が暴走し理性が吹っ飛んでしまうこと。
本書は、この「タガの外れ」具合を、ある対象につぎ込んだ「お金」の多寡によって計る、というチキンレースに挑む者たちの赤裸々な告白本だ。


チキンレースと言っても戦う相手は他人ではない。
それは自分の中の常識とか理性とか、ある対象への純粋な「愛」を阻む邪魔者たち。
「ある対象」は人さまざまだ。
ある者は声優に、ある者は同人誌に、ある者はアイドルに、ある者はオンラインゲームに、ある者はディズニーに、ある者は韓流スターに。
その対象のために日本中、いや文字通り世界を股にかけてお金と時間を注ぎ込み追いかけ続ける。
参加者たちは愛する対象に自分のお金を捧げるその行為を、浪費ではなく「愛」と呼ぶ。


彼女たちの経験は隠れ信者たちの信仰告白のように、それぞれ密やかな口調で語られるけれど、どれも破滅的で自虐的で、でもその大部分の底辺には喜びの感情が潜んでいて後悔の念は薄い。
いやむしろ、後悔するのは「なぜあの時に買わなかったのか」という点であるというところに彼女たちの心意気が見え、その挙句の経済的破綻すらむしろ英雄的であるとさえ思えてくる。
…私もおかしくなっているのかしら?いやいや違う、違う。
だって彼女たちは私たちでもあるのだから。


ミッキーマウスに愛(お金)を捧げるある女性の述懐を読むとよく分かる。

何かのファンをしている人は、お金を払う対象がいなくなってしまったら…という不安がどこかにチラつく瞬間があるんじゃないかと思う。ミッキーは「ご報告」「大切なお知らせ」のような不穏なワードを出してこないし、20年以上見てきているのに、昔と同じようにキレのあるダンスを踊って楽しませてくれる。…ミッキーはいなくならない。でもわたしはいつかいなくならなくてはいけない。逆に言えば、私が健康で多少のお金を持ってさえいれば死ぬまでミッキーの活躍を見続けられる。

ここを読んだ時には、不覚にも涙がこぼれた。
対象が何であれ、何かを一心に愛したいと願う、なのに愛することに対して傷つきやすくナイーブである彼女たちは、決して特別な人たちではない。
私たちは多かれ少なかれ、愛に対して一途で臆病、そうじゃない?


本書の読者は、ある者は共感し、ある者は「さっぱり分からない」と評するらしい。
確かに何に浪費するかという点で人それぞれの志向に差がある以上仕方ない。
だけど、そこには、正しいも間違いもない。
浪費は病気の症状でも特殊な性癖でもなく、人それぞれの自己表現であり、自己実現行為の一つなのだから。

浪費図鑑―悪友たちのないしょ話― (コミックス単行本)

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