「OPEN アンドレ・アガシの自叙伝」 アンドレ・アガシ 著

男子テニスでグランドスラム全制覇&オリンピック優勝、世界ランキング1位。しかし彼はテニスが大嫌いだった。つまりこれは、大嫌いなことをして、世界一になった男の自叙伝なのである。


誘われたのは、表紙の顔。
無精ひげを生やした彫りの深い顔。
だけどどこか淋しげで、何かを請うように見つめる子供のような不思議な色の瞳を見た時、ついふらふらとこの本を手にしてしまった。


アンドレ・アガシの自叙伝」
アンドレ・アガシと言えば、独特のファッションとピアス、長い金髪を染め分けライオンのようになびかせてコートを走る姿が思い浮かぶ。
そして、テニスプレイヤーとしての彼の経歴は、ご存知の方には言わずもがな。
しかし、私同様、テニスに疎い方のために紹介をすると。(これらは引退時点での記録であるが)

グランドスラム大会全制覇&オリンピック優勝  
男子テニス選手史上唯一のグランドスラム大会全制覇&オリンピック優勝。
・連続グランドスラム連続決勝進出  
オープン化以降、4大会連続でグランドスラム決勝進出を果たした3選手の1人。
グランドスラム最多連続出場  
オープン化以降、グランドスラム最多出場(2006年ウィンブルドンで60大会目)。
・自己最高世界ランク  1位

いずれも、テニス史に燦然と輝く記録である。
まさにテニスの申し子。


しかし、彼はこの本の中で一貫して言い続ける。

「テニスは嫌いだ」

と。
つまりこれは、大嫌いなことをして、世界一になった男の自叙伝なのである。


彼のテニスとの出会いは早い。
彼がベビーベッドにいた頃、イランからの移民で元オリンピック選手でもある父親は、モービルにテニスボールを吊るして、赤ん坊の彼の手にくくりつけた卓球用のラケットでそれを打つように促したという。
以後、テニスが彼の世界の中心となる。
父親はテニスコートを作るために家を選び、4歳から町を訪れるテニスプレイヤーと賭けテニスをさせる。
7歳の息子に大きなボールマシーン、別名ドラゴンを与え、毎日2500個のボールを打たせた。
テニスに集中するために、学校は9年生でドロップアウト
感情的で気が短い、そして衝動的で暴力的な父親の情熱はすべて、アンドレをテニスの世界チャンピオンにするために注がれる。
他の家族を犠牲にし、そして何よりもアンドレの「子供時代」を犠牲にして。


大嫌いなものを糧に生きていくことは彼の精神に深刻な矛盾を強いて、その反動からか無軌道な行動に向かわせる。
奇抜な髪型やメーキャップをしてコートに立ち、悪態をつく。
紳士的なライバル、ピート・サンプラスと対象的な彼は、テニス界の異端児、風雲児として話題になった。
派手な交友関係、女優であるブルック・シールズとの最初の結婚と離婚。
本書では、その頃の話ももちろん、ライオンのようなあの頭が実はカツラであったことや、薬物を使用した経験なども告白。
これらは出版前から大きな話題となった。


そして一方で、彼は、大嫌いなテニスを通じて最も大切な人々と出会う。
彼の転戦を支えた大切な兄、父親代わりとなるトレーナー、彼を奮い立たせるコーチ、素晴らしい時間と惨めな時間を共にした元妻。
そして元女子テニスプレイヤーとして4大大会優勝、世界ランク1位の連続記録を持つ妻、シュテフィ・グラフ
夫と同じく、幼い頃からステージパパに育てられたシュテフィ。
互いの父親同士が最初に出会う場面には大笑いしてしまった!


様々な出会いと試練を経て、やがて、彼の父親に対する見方も変化する。
ライバル、サンプラスとの試合に敗れ、心臓手術を控えた父親の元に駆けつけたアガシに、父親はチューブをつけた身体で、じれったそうにジェスチャーをする。

ボレーの練習をしろ。もっとハードに打て。

僕は耐え、許そうとする非常に強い衝動を感じる。なぜなら、父はわかってはいても、自分をどうすることもできないこと、これまでも自分自身を自由にできなかったことを理解したからだ。父は父なのであり、常にそうあり続けるだろう。そして彼は自分をコントロールできない。僕を愛することと、テニスを愛することとがどう違うのか説明することはできないが、どちらにしてもそれは愛なのだ。残念ながら、ほとんどの人が自分を知るという恩恵を与えられない。そしてそうできるまでに僕らのできることといったら、一貫性のある生き方をすることしかない。父にもし一貫性がなかったら、何者でもない。

彼は翌週、キービスケーンの決勝でサンプラスに勝つ。
そして、彼は世界チャンピオンになった。



アガシは今年44歳。
彼は現在、大嫌いなテニスを通じて得た資金をもとに、または妻とチャリティーマッチなどで寄付金を募り、就学困難家庭の子供たちのための学校を運営している。
彼はシニアクラスの生徒たちに語るスピーチについて考える。
テーマは矛盾。
誰の人生も矛盾と皮肉に満ちているのかもしれない。

これが受け入れられる見方であるかどうかわからなかったが、今ではそれによって舵を取っている。今ではそれが僕の北極星である。

人生は両極の間のテニスの試合である。勝つことと負けること、愛と嫌悪、開くと閉じる。それは早い段階でその痛々しい事実を認識する助けとなる。それから自分の中に正反対のものである両極を認識する。そしてもしそれらを受け入れることができないとしても、あるいはそれらに甘んじることができないとしても、少なくともそれらを受け入れて、前に進むことだ。してはいけないことは、それを無視することである。


アガシ一家の住む家の裏庭には、テニスコートはないという。




この本で、最初に戸惑ったのは、まるでテープレコーダーに1人で語り続けているような訥々とした言葉の流れ。
翻訳がまずいのかとも思ったのだけど(実際そのような指摘もあるようだ)、もしこれが意図的なものなのであれば、その狙いは読者をアンドレ・アガシ自身に同化させることなのではないかと思う。
彼の語りはとても力があり、その記憶は余りに鮮明なので(過去の試合の流れ、1つ1つのショットなども克明に覚えているようだ)、読み進むうちに私まで彼の心のうち、身体の痛みを感じて息苦しくなるほどだった。
おそらくこれは彼自身の話し言葉に近い文章なのだろう。
生意気なことを言えば、頭で考えた文章というよりは、身体から感じられた言葉、という印象。
やがて、この言葉の奔流に慣れてきた頃には、彼のテニスを知らなくてもアンドレ・アガシのことを知ったつもりになってしまうのである。



追記…アガシがあとがきで謝辞を述べているコーチ、ブラッド・ギルバート氏は昨年末まで錦織圭選手のコーチでもあったとのこと。
ここ最近の錦織選手の活躍を思えば、それもまた興味深い事実である。


OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝

OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝