映画「自転車泥棒」と一億円のこと

私にとって、先日Twitterで大手ネット通販会社の社長が発表した「1億円プレゼント」キャンペーンとその後の喧騒は衝撃的な出来事だった。

あれは企業の宣伝活動だ、という人がいた。あのキャンペーンに関連するニュースは2~3日トップニュース欄を飾り、今もあのキャンペーンの二番煎じのようなツイートがタイムラインを流れてくる。確かに宣伝にはなったようだ。

また当選した人からの報告ツイートから、それぞれ然るべき理由で切実に100万円を必要とする人、そのお金を自分のためではなく公的な目的に使うとアピールした人が当選したらしいという分析も見た。すると単純にお金をバラまいただけとは言えないし世の中のためになったのかもしれない。

リツイートは600万回と世界記録を更新したらしい。それだけの人が彼のキャンペーンに賛同したということだ。私ひとりが「もやもやする」「スッキリしない」と呟いたって何の影響力もない。

格差社会という言葉が頭に浮かんだ。格差があること自体が問題だとは思わない。私たちは生まれや才能、性質において不公平に生まれつく。しかし不公平であることで人は理不尽さに耐える力を得たり、より恵まれない境遇にいる人に対する優しさを学ぶことにも繋げられる。

私にはあのキャンペーンは、インターネットという半ば公的な場所で、かの社長が大金を使って、私たちの格差社会を露わにし、貧しさを弄んだように見えた。あれは、見世物だった。1億円というお金を使った一種のショウだった。

彼のツイートによって、地面にばら撒かれたお金を這いずり回って拾う人々、という光景が一瞬にしてネット上に広がった。

私のフォロワーにも、日頃の呟きからは想像もできないほどの素早さでかの社長の呟きにリツイートをしている人がいた。できれば見たくはなかった。

イタリア映画の「自転車泥棒」を思い出した。見てはいけない、見たくもなかった惨めな父親の姿を見てしまった子どものことを。

無造作に彼はショウを演出し、それを皆に見せつけた。

彼は何をしたかったのだろう。人から感謝や尊敬の念を寄せられることだろうか。やはり自分の店の宣伝だろうか。

しかし自分を這いつくばらせた相手に人が感謝や尊敬の念を抱くことができると本当に彼は思ったんだろうか。そしてそれを無理やり見せられた人が彼の店で服を買う気持ちになると彼は思ったのだろうか。

尊敬も感謝も信頼も、対等な関係にある人同士の間に発生したものでないなら、それはまったく似て非なる気味の悪い何かでしかないのだけれど。

 

 

自転車泥棒 (字幕版)

自転車泥棒 (字幕版)

 
自転車泥棒 Blu-ray

自転車泥棒 Blu-ray