「スタートボタンを押してください」 D・H・ウィルソン & J・J・アダムズ編

さあ、始まる「スタートボタンを押してください」。

ゲームにまつわる12の作品が収められたSF短編集。
ケン・リュウ(「紙の動物園」など)や桜坂洋(「All YouNeed Is Kill」など)、アンディ・ウィアー(「火星の人」など)といった有名どころの作品は当然ながら、本邦ではあまり知られていない作家の作品もどれも個性的で魅力的だ。
これはお得感ある。
私にとってSFはどれも、現実にはあり得ないという前提からか、どこかせつなさを感じる物語で「お気に入り」の物差しもせつなさの質と量が基準になる。
その基準に従って、上記の3人の作品以外でいくつか本書から挙げてみると、
「1アップ」
「猫の王権」
「キャラクター選択」(一時期私もこういうマイルールでゲームをプレイしてました!)
かしら。
ゲームにまつわるとは言ってもビデオゲームばかりでなく、どの作品で取り上げられるゲームも千差万別、荒唐無稽な設定で難解なルールもあったり、そのもどかしさがまた面白い。

おそらく多くの人々が「ゲーム」好きであることは、沢山のゲームアプリなどが日替わりに登場する様子を見ればよく分かる。
それは私たちの生きているこの世界もまた不公平で不平等なルールに支配されたサバイバルゲームで、別のゲームをしている間は、今まさに自分がその渦中にいることをしばし忘れさせてくれるからかも知れない。
「アンダのゲーム」(エンダーではない)という作品を読んでいてふとそんなことを思った。
死ぬまで私たちはゲームのプレイヤーなんだな、と。
誰の創った、どんなルールのゲームなのかは分からないが、1人のキャラクターとして経験値を稼ぎ、武器を揃え、1人、あるいは仲間とダンジョンを攻略し、敵を倒し、ゴールを目指す。
ただこれが通常のゲームと違うのは、決して「最初からやり直しますか?」という救済のメッセージが流れることはないこと。
私たちがプレイしているこのゲームこそ、最もせつないものなのかも知れない。


スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

「ヌヌ 完璧なベビーシッター」 レイラ・スリマニ 著

ベビーシッターが子ども2人を殺して自殺を図った。なぜ?事件に至る過程を丹念に追いながら、人と人の間に横たわる無理解の深い溝と絶望を描く。

5月のある日、パリのアパルトマンの一室でベビーシッターが2人の幼児を殺害し自殺を図った。
「完璧なベビーシッター(ヌヌ)」
雇い主からそう呼ばれたルイーズという女性がなぜそのような凶行に及んだのか。
そして物語は陰惨な事件の起こった冒頭から、夫ポールとともに妻ミリアムが弁護士の仕事を再開するためにベビーシッターを面接するシーンへと転じる。
面接のその日から子どもたちに好かれ、ベビーシッターの仕事ばかりではなく、美味しい料理、自宅の整理整頓まで完璧にこなす女性ルイーズ。
子どもたちは彼女を「わたしのヌヌ」と呼び、慕う。
そしてポールとミリアムもやがてルイーズなしには自分たちの生活が成り立たなくなっていることに気づく。
では、ルイーズは?彼女は何を考え、何を悩み、何を望んでいたのか…


「うちのヌヌは妖精のように素晴らしい女性なの」
ヌヌ、そもそも大人であるルイーズに対して、親である自分が小さな子どもの使う愛称を使うこと自体が、ミリアムがルイーズという個性を持つ大人の女性の内面を無視していたことの表れかもしれないとも思う。
けれどそれは決してミリアムだけの話ではない。
だって私も店員、上司、同僚、教師、ママ友、そんな役割の仮面をかぶった人の内面がちらりと覗き見えた時、不必要にドギマギすることがあるから。
それは多分、彼ら彼女らに私生活があることを、つい忘れてしまっていること、いや本当はそれを考える面倒さに気づかないふりをしている自分に気づくからでもある。


悪魔は突然現れるわけではなく、たいていはその人の内面で眠っていて、恐らくはあたたかい人間関係だけがそれを抑える力になる。
それが得られない境遇にいる、またはそれを断ち切られた時、悪魔はその人の中で育ち外界に牙を剥くのだ。
私たちには「事件」が起こって初めてその残酷さが目に見える。
初めて…本当に?いや、本当は分かっている。
ミリアムも気づいていた。
ルイーズの寂しさ、寄る辺のない心細さに、そしてその不安定さに。
複数の人間の身勝手や自己保身、心の弱さ、様々な要素が重なって、惨劇が起こる。
おそらくは私たちが目にする多くの「事件」もまたそうなのだろうと思う。

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

「コールド・コールド・グラウンド」 エイドリアン・マッキンティ 著

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。

通勤経路に小さな神社があり、ほぼ毎朝立ち寄っては手を合わせている。
人がふたり通れるくらいの鳥居と六畳ほどの大きさの拝殿。
最初は家族のこと、仕事のことを祈っていたのに、だんだん親類のこと、同僚のこと、友人のこと…と気になることが次々浮かんでキリがなくなってきた。
しかしそれでも頭に浮かんだのはせいぜい自分の所属する場所や身近な人やものばかり。
ある時ふと、私の乏しい想像力は結局、自分と自分の周り以外を切り捨てているのかもしれないと思った。

チャールズとダイアナの華やかなロイヤルウエディングが挙げられた1981年、イギリス連合王国の一部である北アイルランドの首都ベルファスト
祝福ムードに包まれた本土とは裏腹に、ここはイギリスとアイルランドプロテスタントカソリックナショナリストユニオニスト、それぞれが互いに自分の是を声高に主張し、傷つけ合う場所だった。
そんな場所で起こったのは、楽譜が被害者の体内にねじ込まれ、その手は切り取られて別人のものに交換されるという猟奇的な殺人事件。
担当したのは王立アルスター警察隊巡査部長のダフィ、カソリック教徒で大学では心理学を学んだという警察隊の中の異分子だ。
彼の宗教的、政治的な微妙な立場は、ただでさえややこしい紛争中の街でさらに捜査を困難なものにしてしまう。

ロイヤルウエディングはうっすら覚えているのに、あまり記憶に残っていない北アイルランド紛争
IRAやUDR、UFFと言った団体名称が頻出するので巻末を何度か確認しながら読み始めたが、それは慣れてくると次第に苦にならなくなる。
それよりも各陣営の主張や立場を理解するに従い、犯人探しだけでなく「こいつが悪い」と名指しできないこの紛争の複雑さ、政治や宗教の矛盾について考え込むばかり。
誰かはっきり「悪者」を決めることができればスッキリするのに。

人口が増え、経済圏が拡大し、インターネットは国境を軽々と超え、私たち人間の作った社会は複雑になる一方だ。
今も北アイルランドだけではなく、世界中で異なる宗教や民族、政治制度によって人々は分断され、争いは続けられている。
ものごとは光が当たった面だけ見ても全体像は把握できないし、正義だってどの立場から定義するかで意味が変わってしまう。
そんな複雑さは私たちを混乱させ、単純化された分かりやすい主義主張に飛びつかせようとするけれど、それを安易に選べば自分以外の他者をばっさり切り捨てることにもなりかねない。

あえて自分が複雑な立場に立つと分かった上で、「この狂気を終わらせるために少しでも役に立ちたい」という理想を胸に刑事という職業を選んだダフィ。
けれどと言うか、やはりと言うか、真実にたどり着くまでに彼は、さまざまな力にねじ伏せられ、操られ、ぼろぼろにされてしまう。
そして事件が終わっても、世界も北アイルランドベルファストの街もそれほど変わらず、なんだか少しも報われた気がしない。
ダフィは刑事を志した初心を見失うんじゃないか…と心配になったが、本シリーズは現在6冊刊行済みということで、無事この街で刑事を続けるようだ。
次作も近日中に刊行予定とのことなのでとりあえず一安心。

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。
時にはささやかに、時には壮大に。
幼い頃、願い事が叶わないのは神様が実在しないのか、私の祈る力が足らないのだと思っていた。
今は、たくさんの人の願いが互いに交差し絡み合っているから、神様がそれを解きほぐすにはたくさんの時間がかかるに違いないと考え、待つしかないと思うようになった。
同じように「かくあれかし」と願う自分以外の違う土地、違う宗教、違う価値観の中で生きている誰かを想像しながら。
この世で起こることは複雑で、神ならぬ身の私はそれに耐え、受け入れる覚悟をするしかないのだから。

コールド・コールド・グラウンド (ハヤカワ・ミステリ文庫)

コールド・コールド・グラウンド (ハヤカワ・ミステリ文庫)

「アックスマンのジャズ」 レイ・セレスティン 著

「ジャズを聴いていない者を殺す」

禁酒法の発行間近の1919年4月。
暴力や人種間の争いが蔓延するニューオリンズの街に、斧を持った殺人鬼アックスマンが現れ、「ジャズを聴いていない者を殺す」という予告を新聞社に送りつけ、住民たちを恐怖に陥れる。
ホラー映画のあらすじではない、なんとこれ、実在の事件だと言う。
この事件を題材に作者は、アックスマンを追う3人の魅力的なキャラクターを創造。
黒人女性との結婚をひた隠して生きる刑事、その師匠でマフィアに通じて刑事の職を失った男、探偵志望の混血の若い娘、それぞれが独自の方向から犯人を追い詰める。
そしてニューオリンズといえばもちろんジャズ。
そこでルイ・アームストロングを思わせるルイス・アームストロングというコルネット吹きが幼馴染アイダの協力者として登場し、ストーリーの合間に魅力的な演奏を繰り広げる。

盛りだくさんの要素を盛り込んで、混乱するかと思いきやストーリーはスマートに大胆に進行し、読み易い。
ただし異なる人種が入り乱れ無法地帯と課すニューオリンズの街は活気と猥雑さに満ちて、まさにジャズそのもの。
この街こそがこの作品の主人公なのかもしれない。
英国推理作家協会の最優秀新人賞受賞作。


アックスマンのジャズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アックスマンのジャズ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

映画「スリービルボード」

ミズーリ州の小さな町で、一人の娘がレイプされ、火をつけられて殺された。
その母親ミルドレッドは事件の捜査が行き詰まり放置されていることに怒り、町外れに立つ大きな3つの看板に警察署長に対する抗議を真っ赤な一面広告として貼り出した。
家族や地域住民に愛される温厚な署長は、実は重い病におかされており、そのことを知る住民たちにとってその看板は無情かつデリカシーのない代物で、警察官だった元夫を含め、人々は彼女に対する反感を募らせる。
特に人種差別主義者であり、日頃から黒人などに対する行き過ぎた捜査や暴言・暴力を繰り返すディクソン巡査は、署長への敬慕からかミルドレッドにあからさまな反感を示し、卑劣な嫌がらせを繰り返す。
しかし何者にも怯まず、頑固に、怒りを煮えたぎらせるミルドレッド。
けれどこの怒りは新たな事件を生み出すことになり…。

映画を見て思い出した。
大学院時代、ある文献をゼミ生仲間と手分けして下訳していた時に読んだ、「怒り」とは、まず人の心に一次的に発生したネガティブな感情(例えば悲しみ、恐怖、寂しさなど)が外部に表出される際の二次感情である、という言葉。
当時は、いや怒りこそは外部からの刺激によって突発的に生まれる一次的な感情だろうと思っていたから意外で、以来自身の「怒り」を観察するきっかけになった。
すると、確かに私の「怒り」も、改めて観察すると、感情の高ぶりをアピールするための演出や単に高揚感を上げるための燃料だったり、または敵から身を守るための武器となったり、つまり私は怒りを便利な道具として使っていることに気付かされた。

また、怒りは癖になることにも気づいた。
反射的な怒りの放出に慣れてしまうと、周囲の慄きや遠慮がなんとも心地良く、また怒りを放出した方が物事がスムーズに進むようにも感じられ、ますます怒りという道具が重宝になる。
そして同じ手法を採用している他者が繰り出す怒りを打ち砕き勝利するためには、その怒りと同じか、それ以上の激しい怒りを放出せざるを得ない。
だから映画でもミルドレッドやディクソンが繰り広げる「怒り」と「怒り」の応酬はどこまでもきりがなく、切なく、苦しいばかりで出口が見えない。

ところが、あることをきっかけに2人は変わり始める。
それは、ある意外な人物からミルドレッドに提供されたあの悪評高い3つの看板の広告料。
または、ある人物が恨みと痛みをこらえながら傷だらけのディクソンに差し出した一杯のオレンジジュース。
「怒り」に対して、他者から「怒り」ではないものを差し出された時、人は戸惑い、怒りに逃げることが出来なくなってしまう。
その時人は、怒りの奥底に眠っていた本当の感情、哀しみや恐怖に気づき、それと向き合わねばならなくなる。

「怒りは怒りを来す」

怒りは自分だけでなく、周囲の人々を傷つけ、新たな怒りを、そして悲劇を呼び覚ます。
徐々にそのことを学び始めるミルドレッドとディクソン。
しかし、これまで散々自らの負の感情を怒りによって解消してきた彼女らは、苦しみを、悲しみを和らげる手段を他に知らない。
ラストでこの2人が、にわか同行者となったものの、行き場のない苦悩を解消する手段を探しあぐねて、途方にくれた顔で車窓からの景色を眺める。
まるで知らない土地に放り出された幼な子のように。
願わくば、この幼な子たちが、決して優しくはないこの世界を生き延びるために、怒りを手放し他者と折り合うすべを学ぶことができますように、と祈る。
そして私もまた、それを見つけ、怒りを手放すことができますように、と。

「屋根裏の仏さま」 ジュリー・オオツカ 著

世界はたくさんのたくさんの異なる「わたしたち」で出来ている。どれもかけがえのない大切な「わたしたち」で。

写真だけを頼りに新世界アメリカに旅立った日本人の「写真花嫁」たち。
彼女たちを待っていたのは、写真とは似ても似つかぬ男性や、約束された住まいや仕事とはかけ離れた過酷な境遇、そして差別。
懐かしい故郷、母の元には、帰ろうにも帰れない。
ここで生きて行くしかないという諦めと覚悟を、今度は戦争が引き裂く。

一人称複数の「わたしたち」だけで書かれた物語に、ただただ圧倒される。
まるで詩のように、心地よく、さざ波のように繰り返すたくさんの「わたしたち」。
かつて確かに存在した私の同胞たち。
その手を取って慰めてあげたい同志たち。

最後に、日本人花嫁たちだけでない別の「わたしたち」が語り手となり、気づく。
世界はたくさんのたくさんの異なる「わたしたち」で出来ている。
どれもかけがえのない大切な「わたしたち」で。


屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

「許されざる者」 レイフ・GW・ペーション 著

スウェーデン・ミステリ界の重鎮の代表作で、CWA賞、ガラスの鍵賞など五冠に輝いたという惹句もむべなるかな。

本書の主人公は、物語の冒頭で突然脳梗塞で倒れた元国家警察庁長官ラーシュ・マッティン・ヨハンソン。
命拾いをしてゆっくりリハビリに励むはずが、思いがけない主治医からの頼みで、迷宮入りとなった25年前の少女殺人事件の真犯人を探すことになる。

北欧ミステリらしい硬質な文章が、人間味にあふれた主人公、心配する妻やかつての相棒、破天荒な兄や捜査を手伝う義弟と謎めいた青年などの登場人物たちを軽快なテンポで生き生きと描写する。
無能な刑事が担当したことによって長年眠っていた迷宮事件の謎が、ヨハンソンの推理で徐々に明らかになる展開にページをめくる手が止まらない。

病に倒れたヨハンソンが、死を間近に感じながら、一刻も早い、そして真っ当な事件の解決を願いつつ、一方で曲げてはならない刑事としての信念や正義のあり方を再確認していく過程が胸に響く。
また若い頃なら読み飛ばしていたような、さりげないシーンに表れる夫婦の心の機微や家族の温かさにも涙腺が刺激された。

いかなる慈悲をも与えるな。命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申命記19章21節)

作品のモチーフであるこの言葉が、ラストに突き刺さる。
最近読んだ本の中ではピカ一の面白さで、本邦初と聞き、出来ればシリーズ最初から読みたかったかなあ。


許されざる者 (創元推理文庫)

許されざる者 (創元推理文庫)