「コールド・コールド・グラウンド」 エイドリアン・マッキンティ 著

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。

通勤経路に小さな神社があり、ほぼ毎朝立ち寄っては手を合わせている。
人がふたり通れるくらいの鳥居と六畳ほどの大きさの拝殿。
最初は家族のこと、仕事のことを祈っていたのに、だんだん親類のこと、同僚のこと、友人のこと…と気になることが次々浮かんでキリがなくなってきた。
しかしそれでも頭に浮かんだのはせいぜい自分の所属する場所や身近な人やものばかり。
ある時ふと、私の乏しい想像力は結局、自分と自分の周り以外を切り捨てているのかもしれないと思った。

チャールズとダイアナの華やかなロイヤルウエディングが挙げられた1981年、イギリス連合王国の一部である北アイルランドの首都ベルファスト
祝福ムードに包まれた本土とは裏腹に、ここはイギリスとアイルランドプロテスタントカソリックナショナリストユニオニスト、それぞれが互いに自分の是を声高に主張し、傷つけ合う場所だった。
そんな場所で起こったのは、楽譜が被害者の体内にねじ込まれ、その手は切り取られて別人のものに交換されるという猟奇的な殺人事件。
担当したのは王立アルスター警察隊巡査部長のダフィ、カソリック教徒で大学では心理学を学んだという警察隊の中の異分子だ。
彼の宗教的、政治的な微妙な立場は、ただでさえややこしい紛争中の街でさらに捜査を困難なものにしてしまう。

ロイヤルウエディングはうっすら覚えているのに、あまり記憶に残っていない北アイルランド紛争
IRAやUDR、UFFと言った団体名称が頻出するので巻末を何度か確認しながら読み始めたが、それは慣れてくると次第に苦にならなくなる。
それよりも各陣営の主張や立場を理解するに従い、犯人探しだけでなく「こいつが悪い」と名指しできないこの紛争の複雑さ、政治や宗教の矛盾について考え込むばかり。
誰かはっきり「悪者」を決めることができればスッキリするのに。

人口が増え、経済圏が拡大し、インターネットは国境を軽々と超え、私たち人間の作った社会は複雑になる一方だ。
今も北アイルランドだけではなく、世界中で異なる宗教や民族、政治制度によって人々は分断され、争いは続けられている。
ものごとは光が当たった面だけ見ても全体像は把握できないし、正義だってどの立場から定義するかで意味が変わってしまう。
そんな複雑さは私たちを混乱させ、単純化された分かりやすい主義主張に飛びつかせようとするけれど、それを安易に選べば自分以外の他者をばっさり切り捨てることにもなりかねない。

あえて自分が複雑な立場に立つと分かった上で、「この狂気を終わらせるために少しでも役に立ちたい」という理想を胸に刑事という職業を選んだダフィ。
けれどと言うか、やはりと言うか、真実にたどり着くまでに彼は、さまざまな力にねじ伏せられ、操られ、ぼろぼろにされてしまう。
そして事件が終わっても、世界も北アイルランドベルファストの街もそれほど変わらず、なんだか少しも報われた気がしない。
ダフィは刑事を志した初心を見失うんじゃないか…と心配になったが、本シリーズは現在6冊刊行済みということで、無事この街で刑事を続けるようだ。
次作も近日中に刊行予定とのことなのでとりあえず一安心。

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。
時にはささやかに、時には壮大に。
幼い頃、願い事が叶わないのは神様が実在しないのか、私の祈る力が足らないのだと思っていた。
今は、たくさんの人の願いが互いに交差し絡み合っているから、神様がそれを解きほぐすにはたくさんの時間がかかるに違いないと考え、待つしかないと思うようになった。
同じように「かくあれかし」と願う自分以外の違う土地、違う宗教、違う価値観の中で生きている誰かを想像しながら。
この世で起こることは複雑で、神ならぬ身の私はそれに耐え、受け入れる覚悟をするしかないのだから。

コールド・コールド・グラウンド (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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