映画「スリービルボード」

ミズーリ州の小さな町で、一人の娘がレイプされ、火をつけられて殺された。
その母親ミルドレッドは事件の捜査が行き詰まり放置されていることに怒り、町外れに立つ大きな3つの看板に警察署長に対する抗議を真っ赤な一面広告として貼り出した。
家族や地域住民に愛される温厚な署長は、実は重い病におかされており、そのことを知る住民たちにとってその看板は無情かつデリカシーのない代物で、警察官だった元夫を含め、人々は彼女に対する反感を募らせる。
特に人種差別主義者であり、日頃から黒人などに対する行き過ぎた捜査や暴言・暴力を繰り返すディクソン巡査は、署長への敬慕からかミルドレッドにあからさまな反感を示し、卑劣な嫌がらせを繰り返す。
しかし何者にも怯まず、頑固に、怒りを煮えたぎらせるミルドレッド。
けれどこの怒りは新たな事件を生み出すことになり…。

映画を見て思い出した。
大学院時代、ある文献をゼミ生仲間と手分けして下訳していた時に読んだ、「怒り」とは、まず人の心に一次的に発生したネガティブな感情(例えば悲しみ、恐怖、寂しさなど)が外部に表出される際の二次感情である、という言葉。
当時は、いや怒りこそは外部からの刺激によって突発的に生まれる一次的な感情だろうと思っていたから意外で、以来自身の「怒り」を観察するきっかけになった。
すると、確かに私の「怒り」も、改めて観察すると、感情の高ぶりをアピールするための演出や単に高揚感を上げるための燃料だったり、または敵から身を守るための武器となったり、つまり私は怒りを便利な道具として使っていることに気付かされた。

また、怒りは癖になることにも気づいた。
反射的な怒りの放出に慣れてしまうと、周囲の慄きや遠慮がなんとも心地良く、また怒りを放出した方が物事がスムーズに進むようにも感じられ、ますます怒りという道具が重宝になる。
そして同じ手法を採用している他者が繰り出す怒りを打ち砕き勝利するためには、その怒りと同じか、それ以上の激しい怒りを放出せざるを得ない。
だから映画でもミルドレッドやディクソンが繰り広げる「怒り」と「怒り」の応酬はどこまでもきりがなく、切なく、苦しいばかりで出口が見えない。

ところが、あることをきっかけに2人は変わり始める。
それは、ある意外な人物からミルドレッドに提供されたあの悪評高い3つの看板の広告料。
または、ある人物が恨みと痛みをこらえながら傷だらけのディクソンに差し出した一杯のオレンジジュース。
「怒り」に対して、他者から「怒り」ではないものを差し出された時、人は戸惑い、怒りに逃げることが出来なくなってしまう。
その時人は、怒りの奥底に眠っていた本当の感情、哀しみや恐怖に気づき、それと向き合わねばならなくなる。

「怒りは怒りを来す」

怒りは自分だけでなく、周囲の人々を傷つけ、新たな怒りを、そして悲劇を呼び覚ます。
徐々にそのことを学び始めるミルドレッドとディクソン。
しかし、これまで散々自らの負の感情を怒りによって解消してきた彼女らは、苦しみを、悲しみを和らげる手段を他に知らない。
ラストでこの2人が、にわか同行者となったものの、行き場のない苦悩を解消する手段を探しあぐねて、途方にくれた顔で車窓からの景色を眺める。
まるで知らない土地に放り出された幼な子のように。
願わくば、この幼な子たちが、決して優しくはないこの世界を生き延びるために、怒りを手放し他者と折り合うすべを学ぶことができますように、と祈る。
そして私もまた、それを見つけ、怒りを手放すことができますように、と。