「アルテミス」 アンディ・ウィアー 著

「火星の人」のテイストそのままに、次の舞台は月。
挑戦するなあ、著者。
重力が地球の1/6という環境で、まさに縦横無尽に飛び回る(文字通り)大活躍で月面都市アルテミスの危機を救うヒロインはジャズ・バシャラ。
優秀な頭脳を持ちながらも男を見る目のなさが祟り、父親に勘当され月面都市アルテミスの最下層で暮らす彼女が、科学知識やエンジニアとしてのセンスを活かして月面における殺人と陰謀の謎を解く!

あらすじもわくわくドキドキだけど、面白かったのは月面都市アルテミスの設定そのものにもある。
住民たちはいずれも多様な人種、国、宗教を持っており、それぞれに地球上のしきたりや仲間意識をちょっとずつ月世界にも持ち込んでいる。
そしてそれぞれの付き合い方、折り合い方がとてもスマート。
地球と同じく、お金持ちには天国だけど、逆の場合はそれなりに。
けれど才覚次第で稼ぐチャンスも転がっているというのは、新しい人類の開拓地ならでは。

それにしても、「火星の人」でもつくづく感じたが、宇宙空間ではかくも人間というのは弱く脆い存在なのか。
それでも人は宇宙を、新しい世界へ旅立つ未来を志向する。
だからこそ、人は多くの知識を学ばなければならないし、そしてさまざまな考え方を持つ他者と衝突せずに共存する知恵を学ばなければならないのだと考えさせられた。

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

「晩夏の墜落」ノア・ホーリー 著

晩夏のある日、年齢も境遇もばらばらな11人の乗客を乗せたプライベートジェットが、海に墜落した。
その事故で奇跡の生還を果たした主人公と4歳の少年を巡り、事故の真相を探るため、好奇心を満たすため、あるいは野心を実現させるため、人々はそれぞれ思惑を抱いて彼らに接近する。
本書は、事件後この生還者2人をめぐるドラマと並行し、死者たちも加えた「その時まで」の人生を交互に描く。
それによって分かるのは、主人公も死者たちも、誰もが理由なく、善悪や貧富、年齢とも関係なく、理不尽に「生」と「死」のどちらかに一刀両断されたということ。
そのことは、多くの犠牲者を生み出す大規模な天災や事故の残酷さと、それらが起こるたびに感じる「なぜ私ではなくこの人たちだったんだろう」という気持ちを思い起こさせる。

「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」
とは山田風太郎さんの言葉。
本書を読んでこの言葉を思い出した。
こんな理不尽な神の選別に対して、人間は何ができるのか?
主人公の行動と選択は、この問いに対する答えの一つと言えるかもしれない。


晩夏の墜落 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

「ナショナル・ストーリー・プロジェクト Ⅰ・Ⅱ」 ポール・オースター編

どの人にも、語るべき物語がある。

ラジオ番組で、ポール・オースターが全米のリスナーに彼の番組で読む実体験に基づいた短い物語を募集。
すると彼の元には4000を越すストーリーが寄せられた。
その中から選ばれた179の作品がこの文庫版のⅠ、Ⅱの2冊に収められている。
全てを読み終わると、まえがきにあったポール・オースターの言葉が胸に染みてきた。

私たちにはみな内なる人生がある。我々はみな、自分を世界の一部と感じつつ、世界から追放されていると感じてもいる。一人ひとりがみな、己の生の炎をたぎらせている。

本書に収められたさまざまな境遇にある人々の物語を読むと、こんなに混沌とした世界であっても、私たちの生活はバラバラに存在しているのではなく、人種や国境、性別、年齢などを超えた共通の基盤のようなもので繋がっているのかもしれない、と信じられる気がする。
だから本書に集められた物語は、それが「愛」についてであれ、「家族」についてであれ、「夢」についてであれ、どれもしごく個人的なものであると同時に、どこか普遍的なものであるかのように感じてしまうのだろう。
どの人にも語るべき物語がある。
だから人は一人ひとり誰もが尊重され、大切に扱われなければならない。
私たちは、その語りに耳をすまさなければならないのだと、そんなことを思った。

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈2〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈2〉 (新潮文庫)

「パリのすてきなおじさん」 金井 真紀・広岡 裕児 著

おじさん好きを自称する金井さんとパリ在住の案内人広岡さんのパリ、おじさんを訪ねる旅。
一見軽い調子に見えるが、実際にはテロや移民問題で揺れるフランス、パリの現在が垣間見える貴重なレポートで、一人一人のおじさんとの触れ合いに「多様性」という言葉が何度も頭に浮かぶ。
みんな同じフランスという国に住んではいるけれど、人種も宗教も職業も年齢もばらばらなおじさんたち。
どの人にも語るに足る物語があり、どの人も自分らしく生きるという気概を持ち、どの人も人に優しくすることの価値を知っている。
もちろん人選の妙はあるとは思うけれど、あとがきにあった案内人である広岡さんの

「この旅は、人間というもの、生きるということの破片を集める旅だった。」

という言葉が本書の本質を表しているような気がする。

本の帯は4種類、どのおじさんを選ぶかはあなた次第、というのも楽しい。

パリのすてきなおじさん

パリのすてきなおじさん

「体の贈り物」 レベッカ・ブラウン 著

私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
先日発表されたスマホの新型機は顔で認証する機能が付いているとか。
ただでさえ一日中何度も眺めているスマホの画面をさらに覗くことになるのか。
それに比べ、私はプライベートで誰か他人の顔を覗き込んだり、その瞳を見つめ返したり、相手の声に耳をそばだてたり、という時間を持てているのだろうか。
そんなことをしたのは、子育て中の頃か、数年前父が倒れて付き添っていた時ぐらいか…。
家族以外の他人の身体に触れる、となるとさらにハードルが高くなる。
最近では、ハラスメントという言葉の威力もあって、電車や会社などの人の多い場所では目を合わすことすら警戒せずにはいられなくて、視線をそらすためにもやはり私はスマホの画面を眺めてしまう。


本書の主人公は、ボランティア団体からエイズに罹患した人々の日常生活をサポートするため派遣された女性。
そして本書は、彼女が思うように身体を動かせなくなった患者たちの家事、掃除、買い物、調理などを手伝いながら過ごす日々を淡々と描く短編集だ。
相手は精神力、体力の落ちた病人でもあるので、主人公はサポートする人の瞳を見つめ、その声に耳を澄まし、表情を観察し、身体の汗を拭い、手を握り、抱きしめる。
ボランティアという、友人でもなく医療関係者でもない立場。
主人公は、中途半端な近しさとプロフェッショナルではない戸惑いを持って、淡々としていながらもどこか言葉や態度に緊張感を漂わせて患者たちをサポートする。


彼女が友人として(それに近い形ではあるが支援する者、される者という関係の前提がある)、隣人として、親類として傍にいるのであったら、それはもっと感情的でドラマチックな展開になるだろう。
彼女が医師や看護師などの医療関係者として、仕事でやっているのであれば、それはそれで適切な距離感が保たれるのだろう。
近くから胸熱く、でもなく、遠くから冷静に、でもない。
あくまでもボランティアとして三歩ぐらい離れて患者らに寄り添う彼女の立ち位置は、かえって彼ら患者たちの本音、弱音やわがままを引き出す。
そして、それぞれ個性的な患者たちと対照的に最後まで名前も出てこない主人公の匿名性と没個性は、私たち読者が社会の一員として、エイズという病に対して、他者に対して、 それぞれが担っている責任とか、ともに社会で生きる痛みとか、切なさとか、やるせなさを思い起こさせる。


しかしやがて患者たちと触れ合う時間が増えるに従い、彼女の中途半端さや没個性はぶれ始める。
立場を超えて「私たちは友だちだよ」と思わず言ってしまう時、彼女のサポートは完全に「仕事」ではなくなってしまう。
そして時間の経過とともに、彼ら彼女らの病気は進行し、やがて必ず訪れる別れの数々は、主人公の心から希望を削ぎ落としていくことになる…。


私も主人公のように感情労働の現場の一隅にいるのだけれど、同じように希望を削ぎ落とされ仕事を離れる仲間、対象者から自分を守るため頑なになる仲間、逆に対象者を責め悪者にせずにはいられない仲間を見て来た。
人はショックや悲しみや怒りから自分の心を守るため、実にさまざまな対処法を編み出すのだと知ったし、おそらく一番手っ取り早い最終的な解決法はその仕事から離れることだと覚悟してもいる。
だから主人公がこの活動を辞めようと考えるくだりは全く他人ごとには思えなかった。
その人が亡くなることを分かっていて、そのことを予期しつつ親しみや友情を深めていくという行為には己の身を削るような残酷さがある。


このボランティア団体を主催するマーガレットが疲れ果てた主人公に言う言葉。

「あなたにやってもらえることがあるわよ」
「もう一度希望を持ってちょうだい」

「希望」を持つために何ができるだろう。
私はいつもニュートラルでいること、そして出来れば自分の感情の動きをどこか冷静に見ている別の自分を持つことを意識している。
そして、そんな自分を傍に置いておくと、時折ふと、助けているはずの自分が、助けているはずの人から助けられている、ということを発見することがある。
主体と客体の転換。
そして気づく。
どんな立場にあろうとも、人は人と「贈り物」を交換できるということを。
たとえそれが死を待つ重い病にかかった人であっても。
私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
多分、そのことに私は「希望」を見出し明日もまた仕事に行くのだろう。
本書を読んで、改めてそんなことを考えてみた。


体の贈り物 (新潮文庫)

体の贈り物 (新潮文庫)

「浪費図鑑 ー悪友たちのないしょ話ー」 劇団雌猫

彼女たちは、それを浪費ではなく「愛」と呼ぶ。

「タガが外れる」という言葉がある。
何かの拍子にリミッターが解除され、欲望や感情が暴走し理性が吹っ飛んでしまうこと。
本書は、この「タガの外れ」具合を、ある対象につぎ込んだ「お金」の多寡によって計る、というチキンレースに挑む者たちの赤裸々な告白本だ。


チキンレースと言っても戦う相手は他人ではない。
それは自分の中の常識とか理性とか、ある対象への純粋な「愛」を阻む邪魔者たち。
「ある対象」は人さまざまだ。
ある者は声優に、ある者は同人誌に、ある者はアイドルに、ある者はオンラインゲームに、ある者はディズニーに、ある者は韓流スターに。
その対象のために日本中、いや文字通り世界を股にかけてお金と時間を注ぎ込み追いかけ続ける。
参加者たちは愛する対象に自分のお金を捧げるその行為を、浪費ではなく「愛」と呼ぶ。


彼女たちの経験は隠れ信者たちの信仰告白のように、それぞれ密やかな口調で語られるけれど、どれも破滅的で自虐的で、でもその大部分の底辺には喜びの感情が潜んでいて後悔の念は薄い。
いやむしろ、後悔するのは「なぜあの時に買わなかったのか」という点であるというところに彼女たちの心意気が見え、その挙句の経済的破綻すらむしろ英雄的であるとさえ思えてくる。
…私もおかしくなっているのかしら?いやいや違う、違う。
だって彼女たちは私たちでもあるのだから。


ミッキーマウスに愛(お金)を捧げるある女性の述懐を読むとよく分かる。

何かのファンをしている人は、お金を払う対象がいなくなってしまったら…という不安がどこかにチラつく瞬間があるんじゃないかと思う。ミッキーは「ご報告」「大切なお知らせ」のような不穏なワードを出してこないし、20年以上見てきているのに、昔と同じようにキレのあるダンスを踊って楽しませてくれる。…ミッキーはいなくならない。でもわたしはいつかいなくならなくてはいけない。逆に言えば、私が健康で多少のお金を持ってさえいれば死ぬまでミッキーの活躍を見続けられる。

ここを読んだ時には、不覚にも涙がこぼれた。
対象が何であれ、何かを一心に愛したいと願う、なのに愛することに対して傷つきやすくナイーブである彼女たちは、決して特別な人たちではない。
私たちは多かれ少なかれ、愛に対して一途で臆病、そうじゃない?


本書の読者は、ある者は共感し、ある者は「さっぱり分からない」と評するらしい。
確かに何に浪費するかという点で人それぞれの志向に差がある以上仕方ない。
だけど、そこには、正しいも間違いもない。
浪費は病気の症状でも特殊な性癖でもなく、人それぞれの自己表現であり、自己実現行為の一つなのだから。

浪費図鑑―悪友たちのないしょ話― (コミックス単行本)

浪費図鑑―悪友たちのないしょ話― (コミックス単行本)

「誰が音楽をタダにした?」 スティーヴン・ウィット 著

音楽はかつて、宝石のように希少価値のある貴重なものだった。

最近、音楽は「聴く」というよりもなんだか「消費する」と言ったほうがしっくりくる。
私の子どもの頃は「好きな音楽を聴く」ためには、その歌手が出演するテレビやラジオ番組をチェックし、家族団欒をこっそり抜け出したり、チャンネル争いに勝利しなければ(それさえも父の野球中継がない時に限られたが)聴くことはできなかった。
少し成長するとお小遣いを貯めてレコードを買い、親類の家でレコードプレイヤーやステレオを借りて聴いたり、友だちが録音したテープをダビングしてもらい何度も繰り返し再生したり。
音質なんて贅沢なことは考えたこともなかった。
だってあの頃、音楽はそのままで十分、宝石のように希少価値のある貴重なものだったのだから。


今はどうだろう。
あの頃あんなに手間暇かけて手に入れた「音楽」が、欲しいと思ったその瞬間に、時には無料で手に入る。
そしてそれは高音質で再生可能な小さな機械に何万曲も保管が可能で、貯め込んだ曲も指一本で消すことができるし、どんな所にも持ち運びできる。
当然ながら、日本レコード協会の統計を見ると、ここ10年、着実にレコード・CDの生産実績は低下し続けている。
そう言えば3年前、あるシンガーソングライターが「アーティスト的にはDL(ダウンロード)するよりもCD買ってくれた方が、将来につながります」「DLだとほとんど利益がないんだ」とSNSでつぶやいていたっけ。


さて本書は、こんな状況を作り出した張本人は誰なのかを探す…ではなく、音楽というコンテンツを巡り、堅固に構築された(と思われていた)ビジネスシステムが、ある画期的な技術革新や自己顕示欲に駆られた「音楽泥棒」たちによる海賊版リーク戦争によって、短期間に崩壊していくさまを描いたドキュメンタリーだ。
そしてこのドキュメンタリーは、古いシステムが燃え落ちたあと、灰の中から新しいビジネスモデルが生まれる過程を描くものでもある。
著者が5年に渡る綿密な調査と関係者へのインタビューによって明らかにしたその経過は、そこで生計を立てていた人には申し訳ないけれど、劇的でスリリングで、正直たまらなく面白い。


章を分け、4つの観点から本書は描かれる。
1つ目は史上最大のリーク源となった大手レコード会社のCD工場で働く男性の。
2つ目は革新的な音響データ技術開発者たちの。
3つ目はある音楽エグゼクティブの。
最後に音楽泥棒たちを追うFBIなど捜査官たちの。
それぞれまったく接点もなく別々の方向を見ていた彼らの行動が、やがて音楽産業を巡る「今ここ」へと絡み合い、結びつく。
しかし、私が衝撃を受けたのは、最後に著者がインタビューをした時、自分たちがかつての音楽ビジネスに対してしでかしたことに対して彼らはそれぞれ非常に無自覚であることだ。
故意なき、共謀なき、音楽産業に対する破壊行為。

「自分がなにをやってのけたか、わかってる?音楽産業を殺したんだよ!」

本書である人物が思わず漏らした一言。
科学者の好奇心や探究心によってなされた発明が多くの人の暮らしを変え、時には人の命を救うこともあり、場合によってはたくさんの人の命をも奪うこともある、ということはレントゲンや原子爆弾の発明などを思い起こせば明らかだろう。
また人の命とまではいかなくとも、数年前あるシンクタンクの「10〜20年後に、日本の労働人口の約49%が人工知能やロボットなどで代替可能」という発表や、インターネットの発展によりネット通販の利用が拡大し街の本屋や商店街を窮地に追い込んでいる様子などを見ると、急激な技術革新や構造変化は人の暮らしに大きな変化とある種の犠牲を強いることもわかる。


さて、本書に登場する人物たちの仕事への一途さやズル賢さ、爆発的なヒットに恵まれる一方でしゃぶり尽くされるミュージシャンやアーティストやインターネット上の聖域を守ろうとするオタクたちのある種の健気さ、ハリポタ作者の雇った弁護士事務所のやり口のエグさ(正当な権利に基づくとは言え)、それらを見ていると、音楽がいかに「お金」と分かち難く結びついているかを思い知る。
だからこそ致命的な変化となりうるのだけど。
しかし「お金」で成果をはかるなら、本書の登場人物の何人かは莫大な利益を得ている成功者だとも言える。
にもかかわらず、何らかの形で自分の期待や予想、理想を裏切られる結果になっているところが、音楽がお金だけで割り切れるものではないということの証拠かも知れない。
本書はそのことも教えてくれる。


「音楽産業を殺す」というのは本当に音楽ビジネスを巡るこの20年の変化を思うと、的確な言葉だと思う。
けれど、それだけでは十分ではない。
この変化は音楽産業に携わる人々から生計を立てるすべを奪い、それと同時に音楽というものの相対的な価値を貶めてしまったのではないかという気がするのだ。
いや、違う違う、音楽自体の価値は昔も今も人間にとっては大きなものであることは変わりない。
そうではなく、私が感じているのは、聴いては忘れ、簡単に捨ててしまえるようになったことで、人々の、音楽やそれを作る人への敬意が少しずつ失われていくことに対する怖さなのだ。
そしてパタパタと指でめくりながらレコードを探すときめきや、深夜ひとりで好きな曲が流れるのを待つ楽しい時間を失ってしまったという喪失感なのだ。