「体の贈り物」 レベッカ・ブラウン 著

私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
先日発表されたスマホの新型機は顔で認証する機能が付いているとか。
ただでさえ一日中何度も眺めているスマホの画面をさらに覗くことになるのか。
それに比べ、私はプライベートで誰か他人の顔を覗き込んだり、その瞳を見つめ返したり、相手の声に耳をそばだてたり、という時間を持てているのだろうか。
そんなことをしたのは、子育て中の頃か、数年前父が倒れて付き添っていた時ぐらいか…。
家族以外の他人の身体に触れる、となるとさらにハードルが高くなる。
最近では、ハラスメントという言葉の威力もあって、電車や会社などの人の多い場所では目を合わすことすら警戒せずにはいられなくて、視線をそらすためにもやはり私はスマホの画面を眺めてしまう。


本書の主人公は、ボランティア団体からエイズに罹患した人々の日常生活をサポートするため派遣された女性。
そして本書は、彼女が思うように身体を動かせなくなった患者たちの家事、掃除、買い物、調理などを手伝いながら過ごす日々を淡々と描く短編集だ。
相手は精神力、体力の落ちた病人でもあるので、主人公はサポートする人の瞳を見つめ、その声に耳を澄まし、表情を観察し、身体の汗を拭い、手を握り、抱きしめる。
ボランティアという、友人でもなく医療関係者でもない立場。
主人公は、中途半端な近しさとプロフェッショナルではない戸惑いを持って、淡々としていながらもどこか言葉や態度に緊張感を漂わせて患者たちをサポートする。


彼女が友人として(それに近い形ではあるが支援する者、される者という関係の前提がある)、隣人として、親類として傍にいるのであったら、それはもっと感情的でドラマチックな展開になるだろう。
彼女が医師や看護師などの医療関係者として、仕事でやっているのであれば、それはそれで適切な距離感が保たれるのだろう。
近くから胸熱く、でもなく、遠くから冷静に、でもない。
あくまでもボランティアとして三歩ぐらい離れて患者らに寄り添う彼女の立ち位置は、かえって彼ら患者たちの本音、弱音やわがままを引き出す。
そして、それぞれ個性的な患者たちと対照的に最後まで名前も出てこない主人公の匿名性と没個性は、私たち読者が社会の一員として、エイズという病に対して、他者に対して、 それぞれが担っている責任とか、ともに社会で生きる痛みとか、切なさとか、やるせなさを思い起こさせる。


しかしやがて患者たちと触れ合う時間が増えるに従い、彼女の中途半端さや没個性はぶれ始める。
立場を超えて「私たちは友だちだよ」と思わず言ってしまう時、彼女のサポートは完全に「仕事」ではなくなってしまう。
そして時間の経過とともに、彼ら彼女らの病気は進行し、やがて必ず訪れる別れの数々は、主人公の心から希望を削ぎ落としていくことになる…。


私も主人公のように感情労働の現場の一隅にいるのだけれど、同じように希望を削ぎ落とされ仕事を離れる仲間、対象者から自分を守るため頑なになる仲間、逆に対象者を責め悪者にせずにはいられない仲間を見て来た。
人はショックや悲しみや怒りから自分の心を守るため、実にさまざまな対処法を編み出すのだと知ったし、おそらく一番手っ取り早い最終的な解決法はその仕事から離れることだと覚悟してもいる。
だから主人公がこの活動を辞めようと考えるくだりは全く他人ごとには思えなかった。
その人が亡くなることを分かっていて、そのことを予期しつつ親しみや友情を深めていくという行為には己の身を削るような残酷さがある。


このボランティア団体を主催するマーガレットが疲れ果てた主人公に言う言葉。

「あなたにやってもらえることがあるわよ」
「もう一度希望を持ってちょうだい」

「希望」を持つために何ができるだろう。
私はいつもニュートラルでいること、そして出来れば自分の感情の動きをどこか冷静に見ている別の自分を持つことを意識している。
そして、そんな自分を傍に置いておくと、時折ふと、助けているはずの自分が、助けているはずの人から助けられている、ということを発見することがある。
主体と客体の転換。
そして気づく。
どんな立場にあろうとも、人は人と「贈り物」を交換できるということを。
たとえそれが死を待つ重い病にかかった人であっても。
私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
多分、そのことに私は「希望」を見出し明日もまた仕事に行くのだろう。
本書を読んで、改めてそんなことを考えてみた。


体の贈り物 (新潮文庫)

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