「駒子さんは出世なんてしたくなかった」 碧野 圭 著

地道に真面目に仕事と家庭を大切にしながら働くたくさんの人に読んで欲しい。

出版社の管理部門の課長として働く駒子さん、42歳。
仕事には裏方としてのやりがいを、そして家庭では稼ぎ頭として主夫である夫と高校生の息子を養うプライドをもって、充実した心穏やかな暮らしを送っている。
そんな中、降って湧いた昇進のチャンスと夫の仕事復帰の話。
ポストを競う自分とは対称的な女性社員のプレッシャーや、セクハラ被害を受けた女性部下の受け入れ、扱いづらいベテラン男性社員との行き違い…数々のトラブルが職場に湧き出す一方、順風満帆に思えた家庭にも波風が立ち始め…。

多様性という概念が社会にじわじわ浸透し始め、現在は一昔前のように社員みんなが昇進を目指しているとは言えない時代になっている。
面倒な人間関係のあれこれを避けるため出世は捨てるという人もいるだろうし、趣味や家族を優先するために出世は二の次にするという人もいるだろう。
ただそれでも、駒子さんに限らず、会社組織に属してある程度の期間が経過すると、誰でも自然と「次の段階」に向き合わねばならない時はやって来る。
異動で新しいメンバーと組んだり、今までとは違う新しい仕事を任されたり、新しい資格に挑戦せざるを得なくなったり。
ストレス溢れる状況だけど、もしかしたらそんな出来事は、人生の曲がり角に来たという合図なのかもしれない。

私も駒子さんと同様の状況に追い込まれたことがある。
曲がり角を曲がるのが本当に怖かった。
けれど本書を読んで、改めてその経験を思い起こしてみると、その経験は私に「新しい視点」を与えてくれたように思う。
指示されて働かされていた立場から、仕事全体の流れや社会がその仕事に求める役割、組織の向かうべき方向…それらを見る新しい視点を持てた、いや持たざるを得なかった。

視点を複数持つと、世界が平面から立体的になり、見ている景色がガラリと変わる。
それによって、周りの人々を見る目も変化した。
好きと嫌いだけでない人間の組み合わせの妙とか複雑さ、面白さを学んだ。
仕事にはいろんな人がいていいんだ、いやいろんな人がいた方がいいんだと思えた。
今は強制的にリセットされ、体の中身をまるごと入れ替えざるを得なくなるような、そんな体験が少し懐かしい。

人生には何も仕事ばかりではなく、進学や進級した時、引っ越しをした時、結婚をした時、子供が生まれた時、人とお別れした時などなど…たくさんの曲がり角がある。
新しい場所には困難や苦労も待っているから、角を曲がる前は大抵緊張したり尻込みしてしまう。
だけど思い切って曲がった人は、その場所がいつしか「自分の場所」になり、自分の身体の細胞が全部新しくなっていくような…あの感覚を必ず味わえる。
そしてそれが次の曲がり角を曲がる時の大きな自信になる。

本書はまさに駒子さんが曲がり角でさまざまな葛藤に直面しながらそれをどう乗り越えていくかという物語。
仕事上の曲がり角と家族の曲がり角が同時期に重なり、その大変さが身につまされる。
けれどピンチの時には、それまでに自分がどう生きてきたか、周囲の人々とどんなふうに信頼関係を築いてきたかということが、ここぞという時の命綱になる。
一番の自分の味方は、一生懸命に生きてきた過去の自分なんだ。
お仕事小説は数あれど、地味な(失礼)主人公、地味なお仕事にここまでいろいろ感情移入したのは初めて。
地道に真面目に仕事と家庭を大切にしながら働くたくさんの人に読んで欲しいと思う。


駒子さんは出世なんてしたくなかった

駒子さんは出世なんてしたくなかった