映画「おみおくりの作法」

やはり、この映画は語り直しの映画なのだ。

ジョン・メイは、独り暮らしで亡くなった方の身元調査や葬儀などの手配を行う公務員だ。
この仕事を20数年間続けてきた彼が、ある日上司に呼ばれて突然リストラを告げられる。
丁寧で手間を惜しまない彼の仕事ぶりが非効率でコストがかかり過ぎると言うのだ。
彼は、現在担当している男性の仕事だけは最後までやらせて欲しいと言い張り、ついには私費を投じて調査を続ける。
そして、死亡後40日目に発見された飲んだくれの浮浪者のような男性の人生を辿り、彼のもと同僚や前妻、娘に、亡くなった彼のことを聞いて回る。
やがて明らかになる死者の過去、素顔や思い…まるで大切な親友のためであるかのように、彼のおみおくりのために奔走するジョン。
一方で、生きている者とは親しまずに生きてきた彼が、やがて死者から生気を分け与えられたかのように現世の喜びに目覚め始める…。


仕事上、対話の際にリフレーミングという話法を使用することがある。
これは対話相手が言葉(特に否定的な言葉)を口にした際、それを肯定的な言葉に置き換えて返す、語り直しの話法の一つだ。
怒りに我を忘れて怒鳴る人などにこの話法を使っていると落ち着きを取り戻し通常のトーンで話がのできるようになるなど、効果を発揮する場合がある。
しかし相手の本意を歪めることもあるので、私は多用を控えているし、非常に取り扱いが難しい技法だと思ってもいる。
この映画を観た時に思い出したのは、このリフレーミングのことだ。


主人公、ジョン・メイは死者たちの葬儀において彼らの信じていた宗教に則り、そして自ら彼らを見送る言葉を丁寧に優しく綴る。
猫だけが生き甲斐の寂しい老女、と総括されそうなある女性の人生を、彼女は誰かと誰かの一人娘であり、かわいがっていた猫の優しい母親であった、と語り直す。
破天荒に生きた男性が保管していた娘の写真が貼られた薄汚れたアルバムから、丁寧に写真を一枚一枚はがし、新しいアルバムに貼り直し娘に手渡す。
彼の手によって、死者の人生に違う角度から新たな光が当てられ、死者は違う相貌を見せ始める。


彼の作業は一度編み上げたセーターをほどき直し、いま一度新しく編み直すようなものだ。
同じ糸を使うのにまったく違う模様が出来上がる、そこには魔法のような何かがある。
絶対に譲れない肝心な部分は、同じ糸を使うということ。
違う糸を使っては、嘘が混じってしまう。
嘘が混じらないように細心の注意を払っているからこそ、彼は死者の遺したものや信仰を確認しようとする。
だからこそ彼の仕事には手間と時間がかかるのではないか。
語り直しの話法もまた、できる限り、その人の真意に沿うことを命題とする。
それは私がリフレーミングを使うときに何よりも気をつけていることだ。
なぜなら、それが相手に対する礼儀であり、自分の語ることもまた、そのように扱われたいと私も思っているから。


ジョンのあとを引き継ぐ役人が死者たちの遺灰をまるでゴミのように撒き捨てて(のように見える)いる場面があった。
死んでしまったら人はモノ同然になってしまうのか。
その姿に、自分もまたいつか死んでその遺灰をこうやって撒き捨てられるかも、とは思わない想像力のなさ、たとえ自分は平気でも、平気でない人がいると考えられない想像力のなさが垣間見える。
そこには死に対する恐れも、他者に対する憐れみも感じられない。
なによりも残酷で恐ろしいことができるのは、想像力のない人間なのだ。


どんな人も、どんな人生も尊敬に値すると信じること。
自分がそうされたいように相手を扱うということ。
でもそのルールは、この世に生きている時も同じじゃないか。
つまり、私たちが思う以上に、生者と死者との付き合い方に差はなく、生と死は地続きなのかもしれない。
そう考えると、最初は胸がつぶれるような思いがしたラストも、生きている間に幸せにならないといけないというこだわりも、死に対する恐怖も、違う相貌を見せ始める。
やはり、この映画は語り直しの映画なのだと思う。



Still Life (2013) [Italian Edition]

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