「天龍院亜希子の日記」 安壇 美緒 著

知らないうちに誰かの人生にコミットする。自分の人生がコミットされる。ネット社会の新しい関係の在り方。

「天龍院亜希子の日記」だけど、生身の彼女は出てこない。
主人公は天龍院亜希子のもと同級生で、そのインパクトの強い苗字でもって彼女をいじめていた男子の一人。
現在彼はさえないサラリーマンとして些かブラックな人材派遣会社に勤め、偶然彼女のものと思われるブログを発見し、なぜか時々アクセスしてはそこを覗いてしまう。
連絡するでも、コメントを送るでもない。
けれど平凡でつまらない毎日の中で、時おり同じ空の下で毎日を送る彼女の何気ない日常の一コマや恋人とのやりとり、そんなことが書かれた日記を読みながら、彼のささくれ立った心は次第に変化していく…。

人間関係って、直に会って会話をしたり、物理的な接触があって互いに影響を受けあうというのが一般的じゃないかと思う。
時々手紙や電話だけで関係が始まり、会うこともなく終わるなんてこともあるけれど、それでも特定の誰かに何かを差し出す、自分の気持ちを示すという方向性はしっかりあるような気がする。
ネットを通じて他人の日記を覗き見するというある意味、本当に一方的な関係(いや見られている方もしっかり「見られていること」だけは認識しているわけだから、一方的でもないかも)で、互いの想像力で補完し合いながら薄い繋がりを続けるというのは、ある意味とても現代的な人間関係の在り方という気がする。
そしてまた、もと同級生ふたりが、27歳になり誰かの人生に責任を負ったり、不毛な関係を絶って何かを始めたり、人生の新たな段階に入るその時にたまたまこんなやり方でニアミスしてしまうというのも、現代のネット社会のリアルなんだろう。

いま通勤の途中ほぼ毎日、本当にこじんまりとした神社お参りしている。
もう2年以上前から、善いことがあった日も、そうでもなかった日も、専用の小銭入れから五円玉を出して賽銭箱に入れ手を合わせ祈る。
最初は個人的な願い事を唱えたりしていたけれど、最近は手を合わせるだけでもういいや、という気持ちで手を合わせる。
ネットで「お参りする時は最初に住所、氏名を唱えなければ神様は誰の願い事かわからない」という記事を読んで数回やってみたけど、それもなんだか自分のさもしさが露呈しているようで、恥ずかしくなりやめた。
世界平和と唱えている方がよほど心が落ち着く。
これなら人違いされても大丈夫だし。

通い始めて気づいたことがある。
拝殿の戸が、晴れた日は30センチくらい、雨の日は5センチくらい、とその日その日で開き加減が微妙に違っている。
流石に今日は、という暴風雨の台風の日に覗くと、1センチほど、やはり開いていた。
見回せばゴミはいつも集められ、手水舎にも濁りのない水がいつも綺麗に張っている。
神社で人と会ったことはなく、その「誰か」は私のことを、私もその「誰か」のことをたぶん現実に会っても分からない。
だけど、毎日お天気と相談しながら拝殿の戸を開く誰かの行為は、この世には確かに誠実に毎日を生きている他者がいること、私は一人で生きているのではなく他者から何かを受け取りながら生かされているということを伝えてくれる。

本書を読んでふと、このことを思い出した。
私が小さな神社をお参りしてそこに他者の気配を感じることは、どんな境遇でどんな姿をしているのかも知らないもと同級生のブログを一方的に読んでいる行為とどこか似ている気がしたのかもしれない。
自分は自分だけで生きているわけではないということ、一人で自律的に生きていると思っているその日々は、実はどこかの誰かの支えで過ごしていたのだと気づくこと。
無為な時間を過ごしていた主人公が、誰かのために頭を下げ、誰かの努力を支えようと態度が変わっていくことは、それが必ずしも報われないとしても、人生の違うステージに彼が立ったことを意味しているような気がする。
ブログで断片的にしか知らないもと同級生の幸せを彼女の知らないどこかで祈ること。
そうできる彼に変わる、一人の男性の変革の時を私は本書で読んだんだなあと思った。

天龍院亜希子の日記

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