「翡翠城市」 フォンダ・リー著

翡翠を身につけることによって感覚機能を増大させ、怪力や敏捷性などの超人的パワーを発揮することができる「グリーンボーン」たち。

彼らの住むケコン島では街のさまざまな利権を巡って2つの勢力、無峰会と山岳会が凌ぎを削っていた。

ところがある事件をきっかけに両者のバランスが崩れ、グリーンボーンたちは会の存続を賭けた最終決戦に挑むことになる

 

伝説の戦士である祖父コール・センと、一族の長として重い責任を負う心優しい兄ラン、直情径行で強いカリスマ性を持つ弟ヒロ、かつて愛のため故郷を離れ翡翠を手放した妹シェイ、そして翡翠への過剰な適応性を持つ従兄弟アンデン。

これら無峰会を束ねるコール一族を主役に、ケコン島を二分するグリーンボーンたちの戦いを描くこの作品、情け容赦ない激しいアクション、そして冷徹な筆致から「アジアンノワール」と称され「ゴッドファーザー」との類似が指摘されている。

しかし私のイメージは、完全に任侠映画の世界。

葛藤を抱えつつ戦線へと復帰を果たすシェイには思わず「よっ!姐さん!」と声をかけたくなってしまうし、最終決戦では「仁義なき戦いのテーマ」が響く。

ライバルである山岳会の女性首領マダは冷酷無比な悪女そのもので、そうそうライバルはこうでなくてはとワクワクする。

またヒロの恋人で、翡翠の力を使うことの出来ないウェンが今後どのような役目を果たすことになるのか、心配であり楽しみでもあり。

そしてこの騒乱の火元、翡翠に魅入られた非グリーンボーンであるケコン人の少年の運命は

 

舞台であるケコン島は、その地形やさまざまな人種が入り乱れる猥雑な街の描写から香港をモデルにしたのではと後書きにあった。

確かにグリーンボーンたちの争いは一族の面子を取り戻す復讐の物語であるが、一方で政治的・経済的な闘争でもある。

そこに大国に翻弄される現在の香港を巡る国際情勢も重ね合わせてついつい深読みしてしまう。

多彩な模様の美しさ、その希少性、複雑な組成ゆえ鉱物の中で最も硬質であるという堅牢性これら翡翠の特質は多様性を尊び簡単には権力に屈しない香港を彷彿とさせるのだ。

 

本書はグリーンボーン・サーガの第一作で、「続・仁義なき戦いいや、次作はすでに刊行済みとのこと。

世界幻想文学大賞受賞作。

 

 

翡翠城市(ひすいじょうし) (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5045)

翡翠城市(ひすいじょうし) (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5045)

 

 

 

 

「マンハッタン・ビーチ」  ジェニファー・イーガン著

第二次世界大戦の混乱の中にあるアメリカで女性潜水士を目指す主人公アナと、彼女の人生に影響を与えた2人の男の物語。

1人は母とアナ、障害のある妹を残して5年前失踪した父エディ。

そして父の雇い主で、その行方を知っているはずの男、ギャングのボスであるデクスター。

父の行方探しと、当時は前例のない女性潜水士を目指すアナの挑戦と成長という2つのテーマを主軸に、なぜ人は時に大切なものを見失ってしまうのかという問いが繰り返される。

著者は、当時のニューヨークの街や裏社会のディティールを、3人それぞれの視点で音が聞こえ匂いまでしそうなくらい丁寧に描き込み、読者を深く深く物語の世界に誘う。

それは、まるで潜水士がひとりで海底に降りていくような、忘れがたい、誰とも分かち難い読書体験だった。

 

マンハッタン・ビーチ

マンハッタン・ビーチ

 

 

 

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「月下の犯罪」 サーシャ・バッチャー二著

本書の副題「一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そしてあるハンガリー貴族の秘史」で挙げられているのは、1945年3月24日の夜に、ハンガリー国境沿いのオーストリア、レヒニッツという村で約180人のユダヤ人が虐殺され、その遺体を同じユダヤ人に埋めさせたうえ、彼らもまた射殺されたという事件のことだ。

それはヒトラーが自殺をする一月前の出来事だった。

そしてこの事件には、著者の大伯母マルギットが関わったともされる。

著者はこの事件の真相を探るため調査を始めるのだが、その過程で、同じく戦時に起こった「別の事件」について書かれた祖母の遺稿を発見する。

その遺稿は死後破棄するよう遺言されていた。

 

本書のメインテーマとなるのは、むしろこの遺稿に記された事件の方ではないかと思う。

そこに溢れる祖母の後悔の念は、彼女の死後も筆者の父や筆者自身の人生にまで暗い影を落とし続ける。

非人間的な暴力が子孫の人生にまで及ぼす影響の大きさ。

自分の子どもを思わず殴ってしまった自分を思い返して著者が呟く一言が怖い。

そして本書で繰り返される「自分だったら正しい行いができたのか」という著者の問いが重い。

おそらく私も著者と同じ答えをするだろう、「否」と。

取り憑かれたように戦時のことを綴った祖母と、精神的に不安定になり治療を受けながら南米にまで渡って祖母の思いをかなえようとする著者の「100年の絆」。

それは著者を過去へと縛りつけ、苦しめるが、祖母の願いーー「なにも失われてはならない」ーーは、彼が引き継ぐことになる。

それは呪いか、より良い未来への約束か、分からないけれど。

 

月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史 (講談社選書メチエ)

月下の犯罪 一九四五年三月、レヒニッツで起きたユダヤ人虐殺、そして或るハンガリー貴族の秘史 (講談社選書メチエ)

 

 

 

「ライフ」 小野寺 史宜 著

大学時代から同じアパートに住み続け、就職はしたものの退職し、今はコンビニや結婚式の代役出席などのバイトで暮らす27歳の幹太。

本書は、特に野望も大きな不満もなく、気がかりといえば上の階の金髪の住民の足音、ちょっと気になっているのは代役で出席した結婚式で再会した元同級生、という彼の日常が描かれている。

 

さまざまなハプニングや新しい出会いや別れもいくつかあるけれど、取り立てて大きな事件が起こるわけでもなく、彼がいきなり人間的に大きく成長を遂げる、いうわけでもない。

それなのに、主人公も含めどの登場人物の人生もおろそかにされずに丁寧に描かれているから、彼らのことが気になりついついページをめくってしまう。

やがて後半になり、どちらかというと何事にも受け身であった幹太が、何年も未消化だった家族との関係を見直してみたり、自分が本当にやりたいことに目覚め始めたり、徐々に世界に向かって自分をゆっくりと開き始める。

 

本当のところ実人生では、TVドラマや映画のように1クールや2時間かそこらでトラブルや課題がすぐ解決したり原因究明できるわけはなく、仕事や肉体維持のための日常生活を送りながら、ゆっくり問題そのものを溶かして分解して吸収していく時間が必要なのだと思う。

その間に自分の身に起こった出来事や出会った人が何かのスイッチを押し、心のシステムを動かして、徐々に未消化だったものが消化され、それが少しずつ自分の一部になって、やがてそこに新しい「自分」が生まれる時間が。

そういう「生まれ直し」あるいは「生き直し」を、私たちは大なり小なり人生の中で繰り返している。

 

いきなり変わることはできない、もどかしさ。

だけどそれが人が生き続けるということなんだろう。

回り道をしているようで、結局幹太は王道を歩いていると私は感じた。

そして世界の片隅で何にもコミットせず生きているようでも、人は誰かや何かに影響を及ぼしているし、誰かに示すその優しさはきっと社会に還元できている。

そういうことを信じようとする気持ちを思い出すことができた。

 

 

ライフ

ライフ

 

 

「今日のハチミツ、あしたの私」 寺地はるな 著

2年間同棲した安西に連れていかれた故郷で彼の父親に結婚を反対された碧。

彼女は、中学生の頃に偶然出会ったハチミツを手掛かりに、頼る人もいない場所で自分の居場所を求めて孤軍奮闘する。

食べ物をテーマにした小説はどれも好きだ。

登場人物が何かしら食べていてくれると、心底安心して先を読むことができる。

食べることは心の健康のバロメータだから。

拒食症に悩んだ碧の、どんな時も自分と、そして目の前の人にちゃんとしたものを作って食べさせようとする姿勢に共感を覚えた。

また和食、洋食どのメニューもハチミツが隠し味に加えられて香りも色も美味しそうで。

蜜蜂たちが懸命に集めた金色の恵みが、人間の寂しさや悲しみを癒す薬になる。

それは人間の毎日が、小さな自然の恵みによって支えられていることを再認識させてくれる。

 

 

今日のハチミツ、あしたの私 (ハルキ文庫)

今日のハチミツ、あしたの私 (ハルキ文庫)

 

 

「ウーマン・イン・ザ・ウインドウ」 上・下 A・J・フィン 著

日課は映画鑑賞と隣人たちの部屋を覗くこと、そしてその合間に高級ワインに耽溺する女性精神科医、アナ・フォックス。

精神科医といっても彼女は部屋から一歩も出ることができず、もっぱら治療は同じ病気、「広場恐怖症」の患者たちが集うサイトでアドバイスするくらい。

ドアを開け外の世界に出ることに恐怖し、自宅で隣人たちの浮気や趣味、チェロの音色、そして自分の心の声に耳を傾ける毎日。

他人との接触といえば時折、別居中の夫や子ども、そして地下室に間借りする男性と挨拶をするぐらい。

家族別々で暮らしていることと彼女の病気は関係がありそうだが、その原因はなかなか語られない。

 

そんなアナの観察の対象である隣家に引越してきたのは、夫婦と息子の3人家族で、なにやら訳ありの様子。

ふとしたことで母親と息子の2人とお近づきになったアナは、この一家の自宅を覗き見するうちにある衝撃的な事件を目撃してしまう。

急いで警察に通報するものの、なぜか被害者は手品のように消えてしまい、一家の誰もがそのことを認めない。

ついには警察までもがワインに溺れた覗き趣味の女性、つまりアナの妄想と決めつける。

なんとか事件を証明するため、家に居ながらにして真犯人に迫ろうとするアナだが、やればやるほど彼女の言動は病人のそれで、やがて自分ですら自分の目撃したことが信じられなくなってしまい、ますます酒に溺れ精神的な自滅に追い込まれていく…。

 

あらすじを書いているだけで、映画「裏窓」やアイリッシュの小説「消えた花嫁」などが思い浮かぶ。

アナが古い映画マニアという設定で、なるほどいろんなシーンがサスペンスフルな画像と共に頭に浮かんでくる。

ただし、それはヒッチコックの「レベッカ」みたいなモノクロの世界で、アナがアルコール中毒であることを考えると、酒に溺れる彼女が見ている世界は、実際にそんな色のない世界なのかもしれない。

けれど「裏窓」や「消えた花嫁」では、主人公を信じてくれる誰かがいた。

だけど、本作では最後までアナと一緒に戦う人は現れない。

それはアナが過去にある失敗をしてしまった報いでもあって、そしてその報いはアナ自身が償わなければならない宿題でもあるのだ。

 

人は誰でも、生きているその過程で、選んではいけない道に足を踏み込んだり、大事な選択を間違ってしまうことがある。

あとがきによると、著者も実は過去にアナと同じ病気を患い、立ち直った過去を持つという。

なるほど道理で、周りに心配と迷惑をかけ、悪癖をやめようやめようと思いつつ、酒瓶に手を伸ばさずにはいられないアナのどうしようもない情けなさ、自己嫌悪と自己弁護の描写が容赦ないと思った。

他の誰かが許しても、自分が最後まで自分を許せない、アナの行為は飲酒による緩やかな自殺行為だったんだと思う。

そんなアナを救ったのは、皮肉にも彼女の命を狙った真犯人なのかもしれない。

人は誰でも間違う、だけど、やり直すことはできる。

ラストでは著者からのそんなメッセージを受け取ったような気がした。

 

 

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 上 (早川書房)

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 上 (早川書房)

 
ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 下 (早川書房)

ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ 下 (早川書房)

 

 

 

「誰かが嘘をついている」 カレン・M・マクマナス 著

誰かが嘘をついている (創元推理文庫)

誰かが嘘をついている (創元推理文庫)

 

読んでいてふと既視感を覚え奥付を確認。

いや、まだ新しいので二度読みしたわけじゃない、良かった。

最近、買った(or借りた)本を読んで「あれ、これ読んだことある!」という事態が何度か続き、衝撃を受けているので念のため。

だけどなんだか覚えがあるんだよなあと思いつつ、読後、あとがきを読んで納得。

そうか、映画の「ブレックファスト・クラブ」だ。

学校が休みの土曜日に、違反行為による罰を受けるために集められた、普段だったら接点のない高校生5人組。

ガリ勉、スポーツ青年、不良、学園のマドンナ、変わり者。

彼らが共に1日を過ごすうちに反発しながらも、互いの悩みや理解し合い、惹かれ合うという今で言うところのスクールカーストを乗り越えた友情のドラマ。

本書も映画のメンバーと構成は似ているが、そこはそれ、映画が公開された1985年当時の高校生と現代の高校生とでは、「不良」の概念も変化して、本書での「不良」にはヤクの売人という噂がたっている。

けれど、同じなのはいずれも親の期待や世間の目、所属するスクールカーストの仲間たちからの束縛に囚われていることだ。

 

さて、本書の主人公たち5人は禁止されたスマホを持ち込んだ罪で放課後の居残り組となっていて、構成は優等生と不良、スポーツマン、可愛い系女子、そこに「学園のゴシップを暴露するサイトを運営する嫌われ者」が加わるところが現代的というか、時代の変遷を感じる。

おまけにそのうちの1人が突然亡くなり、残る4人が容疑者となる中、殺人犯がネット上に犯行宣言を公開する…と、こうした流れもまた映画とは一味違うところだ。

 

設定は異なっても、ストーリーが進むにつれ、彼らが次第に悩みやコンプレックスや秘密を打ち明けあい、互いの中に自分とは違う「他者」を発見し、驚きと反発を感じながらも惹かれ合う…という展開は映画と同様だ。

そして見どころとして共通するのは、彼らの個性がぶつかり合って生まれる人間ドラマ。

異なる価値観、異なる文化を持つ者たちがぶつかり合うところには大きなエネルギーが生まれ、変化と新しい何かが生まれる。

最後まで読んでみると、おそらく作者も犯人探しや謎解きもさることながら、実は生育環境や貧富の差という境界を超えて、人と人が繋がる喜びを一番描きたかったのでは、と思う。

 

私もそうだが、大人になると互いに摩擦を生じることが予想できる相手とはなるだけ関わらずに生きていきたいと思う。

実際に住居や仕事などさまざまなふるいを使って、できるだけそのような人と付き合わないという手段を取ることは可能だ。

しかし学校という世界は、なにしろ「友だち100人できるかな」の世界だから、自分に合わない人を完全に排除するというのは難しい。

その中でカーストやグループを作ることで子どもたちは壁を作り自分を守ろうとするけれど、本書では殺人事件という非日常的なできごとがその壁を壊し、その隙間からふと覗かせる彼らの本音や優しさが閉鎖的な空間に変化をもたらす。

人生のある時期、他者によって厳しく磨かれなければならない時が確かにあるのだろう。

その面白さ。

また本書では近年さまざまな分野で課題となっている「多様性」の問題に若者たちが柔軟に取り組む姿も描いている。

いまだ柔らかく、可変性を秘めた若者たちが現状を変える大きな可能性にワクワクする。

だからこそ「学園ドラマ」は人気ジャンルたり得ているのだ。