「誰かが嘘をついている」 カレン・M・マクマナス 著

誰かが嘘をついている (創元推理文庫)

誰かが嘘をついている (創元推理文庫)

 

読んでいてふと既視感を覚え奥付を確認。

いや、まだ新しいので二度読みしたわけじゃない、良かった。

最近、買った(or借りた)本を読んで「あれ、これ読んだことある!」という事態が何度か続き、衝撃を受けているので念のため。

だけどなんだか覚えがあるんだよなあと思いつつ、読後、あとがきを読んで納得。

そうか、映画の「ブレックファスト・クラブ」だ。

学校が休みの土曜日に、違反行為による罰を受けるために集められた、普段だったら接点のない高校生5人組。

ガリ勉、スポーツ青年、不良、学園のマドンナ、変わり者。

彼らが共に1日を過ごすうちに反発しながらも、互いの悩みや理解し合い、惹かれ合うという今で言うところのスクールカーストを乗り越えた友情のドラマ。

本書も映画のメンバーと構成は似ているが、そこはそれ、映画が公開された1985年当時の高校生と現代の高校生とでは、「不良」の概念も変化して、本書での「不良」にはヤクの売人という噂がたっている。

けれど、同じなのはいずれも親の期待や世間の目、所属するスクールカーストの仲間たちからの束縛に囚われていることだ。

 

さて、本書の主人公たち5人は禁止されたスマホを持ち込んだ罪で放課後の居残り組となっていて、構成は優等生と不良、スポーツマン、可愛い系女子、そこに「学園のゴシップを暴露するサイトを運営する嫌われ者」が加わるところが現代的というか、時代の変遷を感じる。

おまけにそのうちの1人が突然亡くなり、残る4人が容疑者となる中、殺人犯がネット上に犯行宣言を公開する…と、こうした流れもまた映画とは一味違うところだ。

 

設定は異なっても、ストーリーが進むにつれ、彼らが次第に悩みやコンプレックスや秘密を打ち明けあい、互いの中に自分とは違う「他者」を発見し、驚きと反発を感じながらも惹かれ合う…という展開は映画と同様だ。

そして見どころとして共通するのは、彼らの個性がぶつかり合って生まれる人間ドラマ。

異なる価値観、異なる文化を持つ者たちがぶつかり合うところには大きなエネルギーが生まれ、変化と新しい何かが生まれる。

最後まで読んでみると、おそらく作者も犯人探しや謎解きもさることながら、実は生育環境や貧富の差という境界を超えて、人と人が繋がる喜びを一番描きたかったのでは、と思う。

 

私もそうだが、大人になると互いに摩擦を生じることが予想できる相手とはなるだけ関わらずに生きていきたいと思う。

実際に住居や仕事などさまざまなふるいを使って、できるだけそのような人と付き合わないという手段を取ることは可能だ。

しかし学校という世界は、なにしろ「友だち100人できるかな」の世界だから、自分に合わない人を完全に排除するというのは難しい。

その中でカーストやグループを作ることで子どもたちは壁を作り自分を守ろうとするけれど、本書では殺人事件という非日常的なできごとがその壁を壊し、その隙間からふと覗かせる彼らの本音や優しさが閉鎖的な空間に変化をもたらす。

人生のある時期、他者によって厳しく磨かれなければならない時が確かにあるのだろう。

その面白さ。

また本書では近年さまざまな分野で課題となっている「多様性」の問題に若者たちが柔軟に取り組む姿も描いている。

いまだ柔らかく、可変性を秘めた若者たちが現状を変える大きな可能性にワクワクする。

だからこそ「学園ドラマ」は人気ジャンルたり得ているのだ。