「ライフ」 小野寺 史宜 著
大学時代から同じアパートに住み続け、就職はしたものの退職し、今はコンビニや結婚式の代役出席などのバイトで暮らす27歳の幹太。
本書は、特に野望も大きな不満もなく、気がかりといえば上の階の金髪の住民の足音、ちょっと気になっているのは代役で出席した結婚式で再会した元同級生、という彼の日常が描かれている。
さまざまなハプニングや新しい出会いや別れもいくつかあるけれど、取り立てて大きな事件が起こるわけでもなく、彼がいきなり人間的に大きく成長を遂げる、いうわけでもない。
それなのに、主人公も含めどの登場人物の人生もおろそかにされずに丁寧に描かれているから、彼らのことが気になりついついページをめくってしまう。
やがて後半になり、どちらかというと何事にも受け身であった幹太が、何年も未消化だった家族との関係を見直してみたり、自分が本当にやりたいことに目覚め始めたり、徐々に世界に向かって自分をゆっくりと開き始める。
本当のところ実人生では、TVドラマや映画のように1クールや2時間かそこらでトラブルや課題がすぐ解決したり原因究明できるわけはなく、仕事や肉体維持のための日常生活を送りながら、ゆっくり問題そのものを溶かして分解して吸収していく時間が必要なのだと思う。
その間に自分の身に起こった出来事や出会った人が何かのスイッチを押し、心のシステムを動かして、徐々に未消化だったものが消化され、それが少しずつ自分の一部になって、やがてそこに新しい「自分」が生まれる時間が。
そういう「生まれ直し」あるいは「生き直し」を、私たちは大なり小なり人生の中で繰り返している。
いきなり変わることはできない、もどかしさ。
だけどそれが人が生き続けるということなんだろう。
回り道をしているようで、結局幹太は王道を歩いていると私は感じた。
そして世界の片隅で何にもコミットせず生きているようでも、人は誰かや何かに影響を及ぼしているし、誰かに示すその優しさはきっと社会に還元できている。
そういうことを信じようとする気持ちを思い出すことができた。
「今日のハチミツ、あしたの私」 寺地はるな 著
2年間同棲した安西に連れていかれた故郷で彼の父親に結婚を反対された碧。
彼女は、中学生の頃に偶然出会ったハチミツを手掛かりに、頼る人もいない場所で自分の居場所を求めて孤軍奮闘する。
食べ物をテーマにした小説はどれも好きだ。
登場人物が何かしら食べていてくれると、心底安心して先を読むことができる。
食べることは心の健康のバロメータだから。
拒食症に悩んだ碧の、どんな時も自分と、そして目の前の人にちゃんとしたものを作って食べさせようとする姿勢に共感を覚えた。
また和食、洋食どのメニューもハチミツが隠し味に加えられて香りも色も美味しそうで。
蜜蜂たちが懸命に集めた金色の恵みが、人間の寂しさや悲しみを癒す薬になる。
それは人間の毎日が、小さな自然の恵みによって支えられていることを再認識させてくれる。
「ウーマン・イン・ザ・ウインドウ」 上・下 A・J・フィン 著
日課は映画鑑賞と隣人たちの部屋を覗くこと、そしてその合間に高級ワインに耽溺する女性精神科医、アナ・フォックス。
精神科医といっても彼女は部屋から一歩も出ることができず、もっぱら治療は同じ病気、「広場恐怖症」の患者たちが集うサイトでアドバイスするくらい。
ドアを開け外の世界に出ることに恐怖し、自宅で隣人たちの浮気や趣味、チェロの音色、そして自分の心の声に耳を傾ける毎日。
他人との接触といえば時折、別居中の夫や子ども、そして地下室に間借りする男性と挨拶をするぐらい。
家族別々で暮らしていることと彼女の病気は関係がありそうだが、その原因はなかなか語られない。
そんなアナの観察の対象である隣家に引越してきたのは、夫婦と息子の3人家族で、なにやら訳ありの様子。
ふとしたことで母親と息子の2人とお近づきになったアナは、この一家の自宅を覗き見するうちにある衝撃的な事件を目撃してしまう。
急いで警察に通報するものの、なぜか被害者は手品のように消えてしまい、一家の誰もがそのことを認めない。
ついには警察までもがワインに溺れた覗き趣味の女性、つまりアナの妄想と決めつける。
なんとか事件を証明するため、家に居ながらにして真犯人に迫ろうとするアナだが、やればやるほど彼女の言動は病人のそれで、やがて自分ですら自分の目撃したことが信じられなくなってしまい、ますます酒に溺れ精神的な自滅に追い込まれていく…。
あらすじを書いているだけで、映画「裏窓」やアイリッシュの小説「消えた花嫁」などが思い浮かぶ。
アナが古い映画マニアという設定で、なるほどいろんなシーンがサスペンスフルな画像と共に頭に浮かんでくる。
ただし、それはヒッチコックの「レベッカ」みたいなモノクロの世界で、アナがアルコール中毒であることを考えると、酒に溺れる彼女が見ている世界は、実際にそんな色のない世界なのかもしれない。
けれど「裏窓」や「消えた花嫁」では、主人公を信じてくれる誰かがいた。
だけど、本作では最後までアナと一緒に戦う人は現れない。
それはアナが過去にある失敗をしてしまった報いでもあって、そしてその報いはアナ自身が償わなければならない宿題でもあるのだ。
人は誰でも、生きているその過程で、選んではいけない道に足を踏み込んだり、大事な選択を間違ってしまうことがある。
あとがきによると、著者も実は過去にアナと同じ病気を患い、立ち直った過去を持つという。
なるほど道理で、周りに心配と迷惑をかけ、悪癖をやめようやめようと思いつつ、酒瓶に手を伸ばさずにはいられないアナのどうしようもない情けなさ、自己嫌悪と自己弁護の描写が容赦ないと思った。
他の誰かが許しても、自分が最後まで自分を許せない、アナの行為は飲酒による緩やかな自殺行為だったんだと思う。
そんなアナを救ったのは、皮肉にも彼女の命を狙った真犯人なのかもしれない。
人は誰でも間違う、だけど、やり直すことはできる。
ラストでは著者からのそんなメッセージを受け取ったような気がした。
「誰かが嘘をついている」 カレン・M・マクマナス 著
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読んでいてふと既視感を覚え奥付を確認。
いや、まだ新しいので二度読みしたわけじゃない、良かった。
最近、買った(or借りた)本を読んで「あれ、これ読んだことある!」という事態が何度か続き、衝撃を受けているので念のため。
だけどなんだか覚えがあるんだよなあと思いつつ、読後、あとがきを読んで納得。
そうか、映画の「ブレックファスト・クラブ」だ。
学校が休みの土曜日に、違反行為による罰を受けるために集められた、普段だったら接点のない高校生5人組。
ガリ勉、スポーツ青年、不良、学園のマドンナ、変わり者。
彼らが共に1日を過ごすうちに反発しながらも、互いの悩みや理解し合い、惹かれ合うという今で言うところのスクールカーストを乗り越えた友情のドラマ。
本書も映画のメンバーと構成は似ているが、そこはそれ、映画が公開された1985年当時の高校生と現代の高校生とでは、「不良」の概念も変化して、本書での「不良」にはヤクの売人という噂がたっている。
けれど、同じなのはいずれも親の期待や世間の目、所属するスクールカーストの仲間たちからの束縛に囚われていることだ。
さて、本書の主人公たち5人は禁止されたスマホを持ち込んだ罪で放課後の居残り組となっていて、構成は優等生と不良、スポーツマン、可愛い系女子、そこに「学園のゴシップを暴露するサイトを運営する嫌われ者」が加わるところが現代的というか、時代の変遷を感じる。
おまけにそのうちの1人が突然亡くなり、残る4人が容疑者となる中、殺人犯がネット上に犯行宣言を公開する…と、こうした流れもまた映画とは一味違うところだ。
設定は異なっても、ストーリーが進むにつれ、彼らが次第に悩みやコンプレックスや秘密を打ち明けあい、互いの中に自分とは違う「他者」を発見し、驚きと反発を感じながらも惹かれ合う…という展開は映画と同様だ。
そして見どころとして共通するのは、彼らの個性がぶつかり合って生まれる人間ドラマ。
異なる価値観、異なる文化を持つ者たちがぶつかり合うところには大きなエネルギーが生まれ、変化と新しい何かが生まれる。
最後まで読んでみると、おそらく作者も犯人探しや謎解きもさることながら、実は生育環境や貧富の差という境界を超えて、人と人が繋がる喜びを一番描きたかったのでは、と思う。
私もそうだが、大人になると互いに摩擦を生じることが予想できる相手とはなるだけ関わらずに生きていきたいと思う。
実際に住居や仕事などさまざまなふるいを使って、できるだけそのような人と付き合わないという手段を取ることは可能だ。
しかし学校という世界は、なにしろ「友だち100人できるかな」の世界だから、自分に合わない人を完全に排除するというのは難しい。
その中でカーストやグループを作ることで子どもたちは壁を作り自分を守ろうとするけれど、本書では殺人事件という非日常的なできごとがその壁を壊し、その隙間からふと覗かせる彼らの本音や優しさが閉鎖的な空間に変化をもたらす。
人生のある時期、他者によって厳しく磨かれなければならない時が確かにあるのだろう。
その面白さ。
また本書では近年さまざまな分野で課題となっている「多様性」の問題に若者たちが柔軟に取り組む姿も描いている。
いまだ柔らかく、可変性を秘めた若者たちが現状を変える大きな可能性にワクワクする。
だからこそ「学園ドラマ」は人気ジャンルたり得ているのだ。
「欲望の資本主義」 丸山俊一,NHK「欲望の資本主義」制作班,安田洋祐
本書は、経済学者である大阪大学の安田洋祐氏がノーベル経済学賞受賞のスティグリッツ、24歳でチェコ大統領の経済アドバイザーになったセドラチェック、ベンチャー投資家のスタンフォードの3人にインタビューをしたNHKの経済教養ドキュメンタリー「欲望の資本主義」を元に未放送インタビューも含め書籍化した本である。
ちょうどこの本を読んでいた頃。
閉店セールで地元のデパートがすごい人出だった。
この客の半分でも、3分の1でも毎週ここに通っていればこんなことにはならなかったのでは…と思いつつ、私も買うつもりもなかった調理器具や洋服、靴などを物色。
いま持っているものが壊れたわけでも着られなくなったわけでもないのに。
なんだろう、他人が嬉しそうに商品を買っているのを見ると、自分も手に入れたいと思ってしまうこの気持ちは…「買う」瞬間に味わえる興奮は麻薬的だ。
商品は買う人がいてこそ意味を持つ。
人間が居てこそ市は立ち、人間の欲望が続くことで市場は繁栄し永らえる。
世界経済も飽くことなき欲望を抱えた人間の存在を前提に制度設計されている。
セドラチェクは、現在の経済は内部に商品の供給過剰と、消費者の債務の拡大という問題を抱えており、そこから彼はGDPという目標、数値的指標だけを見て判断する経済はいずれ破綻すると考え、経済の成長神話に疑義を唱える。
人間だって、少なくとも一定の時期が来ると成長のスピードは鈍化し、安定期、そして衰退期を迎える。
社会だって人間の集合である以上、同じような経過を辿るのではないかと彼は言う。
それの何がいけないのか、と。
これに対してベンチャー投資企業のシェルパキャピタルCEOのスタンフォード氏は、テクノロジーが世界を変え、更なる成長を促す、世界は更に前進し続けると熱く語る。
確かに人が混み合うバーゲン会場に足を運んでくたびれるよりも、自宅で大手ネット通販会社のHPをサーフィンし買い物をする方が効率的だ。
人間は楽なもの、便利なものを求めて移動するというのが彼の理屈だけれど、その結果、どうなるかと言うと、古いものや不便な地域、産業分野はうち棄てられることになる。
しかし彼によると、それは自然淘汰であって、人類全体で見れば人は進化し、よりよい生活に向かって前進している、ということになる。
しかし、棄てられる地域、分野で、いままさに働いている人がいる。
まるで閉店の決まったこのデパートのように。
いままさに、人は自分の置かれた場所で生きて働いているのに。
閉店セールのデパートでふと佇み、買っても買ってもおそらく有り余るだろう商品の数々と忙しそうに接客する従業員の方たちを見つめて考える。
明日から彼らはどこで働くのだろう。
私たちは皆、生活の糧を得るために仕事が必要だ。
そして仕事は私たちが、それを通じて自分と社会が繋がる紐帯であり、自分の世界を変えるための手段でもある。
夢の「右肩上がりの経済成長が続く世界」における仕事は、常に他の誰かよりも創造的であることが要求されるものであり、それができない人はありとあらゆる手段で他人を蹴落とし、生き残りをかけて戦う必要があるのか。
自然淘汰に逆らうために。
しかし誰もがそれをできるわけではない。
私たちは、誰もがなにがしかの仕事を得て、そこで得た糧をゆるやかに融通し合えるシステムを構築することができないだろうか。
スティグリッツが「アダム・スミスは間違っていた」と語り、「見えざる手」を無邪気に信頼できる時代では無いことを指摘し、政治が経済的な不平等を解消する必要があると主張するのはそういったことではないのか。
なお、本書には続編「欲望の資本主義2」があり、そこではフランスの経済学者であり思想家でもあるコーエンと安田氏の、そしてセドラチェックと気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルとの対談が収録されている。
どちらも、果たして欲望とは無制限に解き放ってよいものなのか、これからの未来に生きる人は何によって幸せを感じるようになるのか等、思索が深まる本だった。
2年に及ぶ「懸案事項」とそのお別れについて
約2年に及ぶ懸案事項が昨日、一段落をした。
一昨日までずっと私の傍にあった未解決の難問が、唐突に解決済み、となって消失してしまった。
こんな終わり方、想像していなかった。
その懸案事項が片付く、その日が来たら…
さぞかし私は嬉しいだろう、飛び上がって喜ぶのだろう、心はどれほど軽くなることか、あれをしよう、これをしよう、あそこに行こう、あれを買おう…。
ずっとその日を思い、頭に描いていたのに、なのに不思議なことに、もうあの問題は片付いたんだ!と思った瞬間、心に浮かんだ映像は、ぽっかりとした暗い穴だった。
なんたること。
私はすっかり「悩みの種」を自身の血肉と化してしまっていた。
いま私の心は、「突然私の一部が切り取られた!」と寂しさを訴えている。
10年以上前、仕事場にたびたびやって来ては、同じ悩みを繰り返し繰り返し話して帰る高齢の女性がいた。
若く傲慢なあの頃の私は、彼女の悩みはありふれた、ごくごく単純な問題としか思えず、いとも簡単に「こうしてああして動いたらすぐに片付くのに」とまるで大根を包丁でばんばんばんっと叩き斬るような大雑把な解決案を示して、それに対して「ほんと、そうよねー」と言いながら、一向に何の手立てもしようとしない彼女を単純に勇気のない人だと思っていた。
いまは思う。
彼女はその悩みを、自分の人生の伴走者としていたのではないかと。
それなしでは走ることもできないほど、それは立派に彼女の心棒となっていたのではないかと。
人はそれを依存というのかもしれない。
そして私の精神もまた、その「懸案事項」にすっかり寄りかかってことを発見する。
当時の私が懸案事項に悩む私に会ったら、おそらく同じようにすぱすぱすぱっと一刀両断で「そんなこと悩んでもしょうがないじゃないですか」「どうにかなりますよ」「なぜはっきり言わないのですか」「自分が動かなきゃ解決しないんですよ」なんて言葉を投げかける、そしてその言葉は決して私の心に届かないのだ。
恥ずかしい、猛烈に恥ずかしい。
人は痛みとも苦しみともなんとか共存できる。
そしてどんな残酷な現実とも、たぶん仲良くやっていこうと努力する。
その努力は懸命に生きようとする人の本能で、誰からも非難されるようなことではない。
ただ、その過程で人は、感受性の働きを歪めてしまうのではないか。
虐待をしつけと言い換えたり、八つ当たりを忠告と言い換えたり、無責任な声かけを助言と言い換えたり、理不尽な暴力を愛情と言い換えたり。
耐えきれないつらさがそうさせるのだ。
だけどそれは、その人の素直さや人との付き合い方を少しずつ損なっているのではないかと思う。
たった2年の、その「懸案事項」との付き合いの中で、きっと私も何かを歪めながら順応してきたのだろう、依存してきたのだろう。
でなければ、問題が解消したというのに、心に空洞ができるわけはない。
さて、これから私は少しずつこの穴を埋めるんだ。
今度は出来るだけ、希望とか、喜びとか、そんなもので埋めていけたら。
映画「自転車泥棒」と一億円のこと
私にとって、先日Twitterで大手ネット通販会社の社長が発表した「1億円プレゼント」キャンペーンとその後の喧騒は衝撃的な出来事だった。
あれは企業の宣伝活動だ、という人がいた。あのキャンペーンに関連するニュースは2~3日トップニュース欄を飾り、今もあのキャンペーンの二番煎じのようなツイートがタイムラインを流れてくる。確かに宣伝にはなったようだ。
また当選した人からの報告ツイートから、それぞれ然るべき理由で切実に100万円を必要とする人、そのお金を自分のためではなく公的な目的に使うとアピールした人が当選したらしいという分析も見た。すると単純にお金をバラまいただけとは言えないし世の中のためになったのかもしれない。
リツイートは600万回と世界記録を更新したらしい。それだけの人が彼のキャンペーンに賛同したということだ。私ひとりが「もやもやする」「スッキリしない」と呟いたって何の影響力もない。
格差社会という言葉が頭に浮かんだ。格差があること自体が問題だとは思わない。私たちは生まれや才能、性質において不公平に生まれつく。しかし不公平であることで人は理不尽さに耐える力を得たり、より恵まれない境遇にいる人に対する優しさを学ぶことにも繋げられる。
私にはあのキャンペーンは、インターネットという半ば公的な場所で、かの社長が大金を使って、私たちの格差社会を露わにし、貧しさを弄んだように見えた。あれは、見世物だった。1億円というお金を使った一種のショウだった。
彼のツイートによって、地面にばら撒かれたお金を這いずり回って拾う人々、という光景が一瞬にしてネット上に広がった。
私のフォロワーにも、日頃の呟きからは想像もできないほどの素早さでかの社長の呟きにリツイートをしている人がいた。できれば見たくはなかった。
イタリア映画の「自転車泥棒」を思い出した。見てはいけない、見たくもなかった惨めな父親の姿を見てしまった子どものことを。
無造作に彼はショウを演出し、それを皆に見せつけた。
彼は何をしたかったのだろう。人から感謝や尊敬の念を寄せられることだろうか。やはり自分の店の宣伝だろうか。
しかし自分を這いつくばらせた相手に人が感謝や尊敬の念を抱くことができると本当に彼は思ったんだろうか。そしてそれを無理やり見せられた人が彼の店で服を買う気持ちになると彼は思ったのだろうか。
尊敬も感謝も信頼も、対等な関係にある人同士の間に発生したものでないなら、それはまったく似て非なる気味の悪い何かでしかないのだけれど。