2年に及ぶ「懸案事項」とそのお別れについて

約2年に及ぶ懸案事項が昨日、一段落をした。

一昨日までずっと私の傍にあった未解決の難問が、唐突に解決済み、となって消失してしまった。

こんな終わり方、想像していなかった。

 

その懸案事項が片付く、その日が来たら…

さぞかし私は嬉しいだろう、飛び上がって喜ぶのだろう、心はどれほど軽くなることか、あれをしよう、これをしよう、あそこに行こう、あれを買おう…。

ずっとその日を思い、頭に描いていたのに、なのに不思議なことに、もうあの問題は片付いたんだ!と思った瞬間、心に浮かんだ映像は、ぽっかりとした暗い穴だった。

なんたること。

私はすっかり「悩みの種」を自身の血肉と化してしまっていた。

いま私の心は、「突然私の一部が切り取られた!」と寂しさを訴えている。

 

10年以上前、仕事場にたびたびやって来ては、同じ悩みを繰り返し繰り返し話して帰る高齢の女性がいた。

若く傲慢なあの頃の私は、彼女の悩みはありふれた、ごくごく単純な問題としか思えず、いとも簡単に「こうしてああして動いたらすぐに片付くのに」とまるで大根を包丁でばんばんばんっと叩き斬るような大雑把な解決案を示して、それに対して「ほんと、そうよねー」と言いながら、一向に何の手立てもしようとしない彼女を単純に勇気のない人だと思っていた。

 

いまは思う。

彼女はその悩みを、自分の人生の伴走者としていたのではないかと。

それなしでは走ることもできないほど、それは立派に彼女の心棒となっていたのではないかと。

人はそれを依存というのかもしれない。

そして私の精神もまた、その「懸案事項」にすっかり寄りかかってことを発見する。

当時の私が懸案事項に悩む私に会ったら、おそらく同じようにすぱすぱすぱっと一刀両断で「そんなこと悩んでもしょうがないじゃないですか」「どうにかなりますよ」「なぜはっきり言わないのですか」「自分が動かなきゃ解決しないんですよ」なんて言葉を投げかける、そしてその言葉は決して私の心に届かないのだ。

恥ずかしい、猛烈に恥ずかしい。

 

人は痛みとも苦しみともなんとか共存できる。

そしてどんな残酷な現実とも、たぶん仲良くやっていこうと努力する。

その努力は懸命に生きようとする人の本能で、誰からも非難されるようなことではない。

ただ、その過程で人は、感受性の働きを歪めてしまうのではないか。

虐待をしつけと言い換えたり、八つ当たりを忠告と言い換えたり、無責任な声かけを助言と言い換えたり、理不尽な暴力を愛情と言い換えたり。

耐えきれないつらさがそうさせるのだ。

だけどそれは、その人の素直さや人との付き合い方を少しずつ損なっているのではないかと思う。

 

たった2年の、その「懸案事項」との付き合いの中で、きっと私も何かを歪めながら順応してきたのだろう、依存してきたのだろう。

でなければ、問題が解消したというのに、心に空洞ができるわけはない。

さて、これから私は少しずつこの穴を埋めるんだ。

今度は出来るだけ、希望とか、喜びとか、そんなもので埋めていけたら。