「屋根裏の仏さま」 ジュリー・オオツカ 著

世界はたくさんのたくさんの異なる「わたしたち」で出来ている。どれもかけがえのない大切な「わたしたち」で。

写真だけを頼りに新世界アメリカに旅立った日本人の「写真花嫁」たち。
彼女たちを待っていたのは、写真とは似ても似つかぬ男性や、約束された住まいや仕事とはかけ離れた過酷な境遇、そして差別。
懐かしい故郷、母の元には、帰ろうにも帰れない。
ここで生きて行くしかないという諦めと覚悟を、今度は戦争が引き裂く。

一人称複数の「わたしたち」だけで書かれた物語に、ただただ圧倒される。
まるで詩のように、心地よく、さざ波のように繰り返すたくさんの「わたしたち」。
かつて確かに存在した私の同胞たち。
その手を取って慰めてあげたい同志たち。

最後に、日本人花嫁たちだけでない別の「わたしたち」が語り手となり、気づく。
世界はたくさんのたくさんの異なる「わたしたち」で出来ている。
どれもかけがえのない大切な「わたしたち」で。


屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

「許されざる者」 レイフ・GW・ペーション 著

スウェーデン・ミステリ界の重鎮の代表作で、CWA賞、ガラスの鍵賞など五冠に輝いたという惹句もむべなるかな。

本書の主人公は、物語の冒頭で突然脳梗塞で倒れた元国家警察庁長官ラーシュ・マッティン・ヨハンソン。
命拾いをしてゆっくりリハビリに励むはずが、思いがけない主治医からの頼みで、迷宮入りとなった25年前の少女殺人事件の真犯人を探すことになる。

北欧ミステリらしい硬質な文章が、人間味にあふれた主人公、心配する妻やかつての相棒、破天荒な兄や捜査を手伝う義弟と謎めいた青年などの登場人物たちを軽快なテンポで生き生きと描写する。
無能な刑事が担当したことによって長年眠っていた迷宮事件の謎が、ヨハンソンの推理で徐々に明らかになる展開にページをめくる手が止まらない。

病に倒れたヨハンソンが、死を間近に感じながら、一刻も早い、そして真っ当な事件の解決を願いつつ、一方で曲げてはならない刑事としての信念や正義のあり方を再確認していく過程が胸に響く。
また若い頃なら読み飛ばしていたような、さりげないシーンに表れる夫婦の心の機微や家族の温かさにも涙腺が刺激された。

いかなる慈悲をも与えるな。命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申命記19章21節)

作品のモチーフであるこの言葉が、ラストに突き刺さる。
最近読んだ本の中ではピカ一の面白さで、本邦初と聞き、出来ればシリーズ最初から読みたかったかなあ。


許されざる者 (創元推理文庫)

許されざる者 (創元推理文庫)

「アルテミス」 アンディ・ウィアー 著

「火星の人」のテイストそのままに、次の舞台は月。
挑戦するなあ、著者。
重力が地球の1/6という環境で、まさに縦横無尽に飛び回る(文字通り)大活躍で月面都市アルテミスの危機を救うヒロインはジャズ・バシャラ。
優秀な頭脳を持ちながらも男を見る目のなさが祟り、父親に勘当され月面都市アルテミスの最下層で暮らす彼女が、科学知識やエンジニアとしてのセンスを活かして月面における殺人と陰謀の謎を解く!

あらすじもわくわくドキドキだけど、面白かったのは月面都市アルテミスの設定そのものにもある。
住民たちはいずれも多様な人種、国、宗教を持っており、それぞれに地球上のしきたりや仲間意識をちょっとずつ月世界にも持ち込んでいる。
そしてそれぞれの付き合い方、折り合い方がとてもスマート。
地球と同じく、お金持ちには天国だけど、逆の場合はそれなりに。
けれど才覚次第で稼ぐチャンスも転がっているというのは、新しい人類の開拓地ならでは。

それにしても、「火星の人」でもつくづく感じたが、宇宙空間ではかくも人間というのは弱く脆い存在なのか。
それでも人は宇宙を、新しい世界へ旅立つ未来を志向する。
だからこそ、人は多くの知識を学ばなければならないし、そしてさまざまな考え方を持つ他者と衝突せずに共存する知恵を学ばなければならないのだと考えさせられた。

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

「晩夏の墜落」ノア・ホーリー 著

晩夏のある日、年齢も境遇もばらばらな11人の乗客を乗せたプライベートジェットが、海に墜落した。
その事故で奇跡の生還を果たした主人公と4歳の少年を巡り、事故の真相を探るため、好奇心を満たすため、あるいは野心を実現させるため、人々はそれぞれ思惑を抱いて彼らに接近する。
本書は、事件後この生還者2人をめぐるドラマと並行し、死者たちも加えた「その時まで」の人生を交互に描く。
それによって分かるのは、主人公も死者たちも、誰もが理由なく、善悪や貧富、年齢とも関係なく、理不尽に「生」と「死」のどちらかに一刀両断されたということ。
そのことは、多くの犠牲者を生み出す大規模な天災や事故の残酷さと、それらが起こるたびに感じる「なぜ私ではなくこの人たちだったんだろう」という気持ちを思い起こさせる。

「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」
とは山田風太郎さんの言葉。
本書を読んでこの言葉を思い出した。
こんな理不尽な神の選別に対して、人間は何ができるのか?
主人公の行動と選択は、この問いに対する答えの一つと言えるかもしれない。


晩夏の墜落 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

晩夏の墜落 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

「ナショナル・ストーリー・プロジェクト Ⅰ・Ⅱ」 ポール・オースター編

どの人にも、語るべき物語がある。

ラジオ番組で、ポール・オースターが全米のリスナーに彼の番組で読む実体験に基づいた短い物語を募集。
すると彼の元には4000を越すストーリーが寄せられた。
その中から選ばれた179の作品がこの文庫版のⅠ、Ⅱの2冊に収められている。
全てを読み終わると、まえがきにあったポール・オースターの言葉が胸に染みてきた。

私たちにはみな内なる人生がある。我々はみな、自分を世界の一部と感じつつ、世界から追放されていると感じてもいる。一人ひとりがみな、己の生の炎をたぎらせている。

本書に収められたさまざまな境遇にある人々の物語を読むと、こんなに混沌とした世界であっても、私たちの生活はバラバラに存在しているのではなく、人種や国境、性別、年齢などを超えた共通の基盤のようなもので繋がっているのかもしれない、と信じられる気がする。
だから本書に集められた物語は、それが「愛」についてであれ、「家族」についてであれ、「夢」についてであれ、どれもしごく個人的なものであると同時に、どこか普遍的なものであるかのように感じてしまうのだろう。
どの人にも語るべき物語がある。
だから人は一人ひとり誰もが尊重され、大切に扱われなければならない。
私たちは、その語りに耳をすまさなければならないのだと、そんなことを思った。

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈1〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈2〉 (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト〈2〉 (新潮文庫)

「パリのすてきなおじさん」 金井 真紀・広岡 裕児 著

おじさん好きを自称する金井さんとパリ在住の案内人広岡さんのパリ、おじさんを訪ねる旅。
一見軽い調子に見えるが、実際にはテロや移民問題で揺れるフランス、パリの現在が垣間見える貴重なレポートで、一人一人のおじさんとの触れ合いに「多様性」という言葉が何度も頭に浮かぶ。
みんな同じフランスという国に住んではいるけれど、人種も宗教も職業も年齢もばらばらなおじさんたち。
どの人にも語るに足る物語があり、どの人も自分らしく生きるという気概を持ち、どの人も人に優しくすることの価値を知っている。
もちろん人選の妙はあるとは思うけれど、あとがきにあった案内人である広岡さんの

「この旅は、人間というもの、生きるということの破片を集める旅だった。」

という言葉が本書の本質を表しているような気がする。

本の帯は4種類、どのおじさんを選ぶかはあなた次第、というのも楽しい。

パリのすてきなおじさん

パリのすてきなおじさん

「体の贈り物」 レベッカ・ブラウン 著

私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
先日発表されたスマホの新型機は顔で認証する機能が付いているとか。
ただでさえ一日中何度も眺めているスマホの画面をさらに覗くことになるのか。
それに比べ、私はプライベートで誰か他人の顔を覗き込んだり、その瞳を見つめ返したり、相手の声に耳をそばだてたり、という時間を持てているのだろうか。
そんなことをしたのは、子育て中の頃か、数年前父が倒れて付き添っていた時ぐらいか…。
家族以外の他人の身体に触れる、となるとさらにハードルが高くなる。
最近では、ハラスメントという言葉の威力もあって、電車や会社などの人の多い場所では目を合わすことすら警戒せずにはいられなくて、視線をそらすためにもやはり私はスマホの画面を眺めてしまう。


本書の主人公は、ボランティア団体からエイズに罹患した人々の日常生活をサポートするため派遣された女性。
そして本書は、彼女が思うように身体を動かせなくなった患者たちの家事、掃除、買い物、調理などを手伝いながら過ごす日々を淡々と描く短編集だ。
相手は精神力、体力の落ちた病人でもあるので、主人公はサポートする人の瞳を見つめ、その声に耳を澄まし、表情を観察し、身体の汗を拭い、手を握り、抱きしめる。
ボランティアという、友人でもなく医療関係者でもない立場。
主人公は、中途半端な近しさとプロフェッショナルではない戸惑いを持って、淡々としていながらもどこか言葉や態度に緊張感を漂わせて患者たちをサポートする。


彼女が友人として(それに近い形ではあるが支援する者、される者という関係の前提がある)、隣人として、親類として傍にいるのであったら、それはもっと感情的でドラマチックな展開になるだろう。
彼女が医師や看護師などの医療関係者として、仕事でやっているのであれば、それはそれで適切な距離感が保たれるのだろう。
近くから胸熱く、でもなく、遠くから冷静に、でもない。
あくまでもボランティアとして三歩ぐらい離れて患者らに寄り添う彼女の立ち位置は、かえって彼ら患者たちの本音、弱音やわがままを引き出す。
そして、それぞれ個性的な患者たちと対照的に最後まで名前も出てこない主人公の匿名性と没個性は、私たち読者が社会の一員として、エイズという病に対して、他者に対して、 それぞれが担っている責任とか、ともに社会で生きる痛みとか、切なさとか、やるせなさを思い起こさせる。


しかしやがて患者たちと触れ合う時間が増えるに従い、彼女の中途半端さや没個性はぶれ始める。
立場を超えて「私たちは友だちだよ」と思わず言ってしまう時、彼女のサポートは完全に「仕事」ではなくなってしまう。
そして時間の経過とともに、彼ら彼女らの病気は進行し、やがて必ず訪れる別れの数々は、主人公の心から希望を削ぎ落としていくことになる…。


私も主人公のように感情労働の現場の一隅にいるのだけれど、同じように希望を削ぎ落とされ仕事を離れる仲間、対象者から自分を守るため頑なになる仲間、逆に対象者を責め悪者にせずにはいられない仲間を見て来た。
人はショックや悲しみや怒りから自分の心を守るため、実にさまざまな対処法を編み出すのだと知ったし、おそらく一番手っ取り早い最終的な解決法はその仕事から離れることだと覚悟してもいる。
だから主人公がこの活動を辞めようと考えるくだりは全く他人ごとには思えなかった。
その人が亡くなることを分かっていて、そのことを予期しつつ親しみや友情を深めていくという行為には己の身を削るような残酷さがある。


このボランティア団体を主催するマーガレットが疲れ果てた主人公に言う言葉。

「あなたにやってもらえることがあるわよ」
「もう一度希望を持ってちょうだい」

「希望」を持つために何ができるだろう。
私はいつもニュートラルでいること、そして出来れば自分の感情の動きをどこか冷静に見ている別の自分を持つことを意識している。
そして、そんな自分を傍に置いておくと、時折ふと、助けているはずの自分が、助けているはずの人から助けられている、ということを発見することがある。
主体と客体の転換。
そして気づく。
どんな立場にあろうとも、人は人と「贈り物」を交換できるということを。
たとえそれが死を待つ重い病にかかった人であっても。
私たちは、この世で生きているつかの間、他者と視線を交わし、言葉を交わし、触れ合って、そうやって最期まで互いの体を通じて「贈り物」を交換することができるのだ。
多分、そのことに私は「希望」を見出し明日もまた仕事に行くのだろう。
本書を読んで、改めてそんなことを考えてみた。


体の贈り物 (新潮文庫)

体の贈り物 (新潮文庫)