「浪費図鑑 ー悪友たちのないしょ話ー」 劇団雌猫

彼女たちは、それを浪費ではなく「愛」と呼ぶ。

「タガが外れる」という言葉がある。
何かの拍子にリミッターが解除され、欲望や感情が暴走し理性が吹っ飛んでしまうこと。
本書は、この「タガの外れ」具合を、ある対象につぎ込んだ「お金」の多寡によって計る、というチキンレースに挑む者たちの赤裸々な告白本だ。


チキンレースと言っても戦う相手は他人ではない。
それは自分の中の常識とか理性とか、ある対象への純粋な「愛」を阻む邪魔者たち。
「ある対象」は人さまざまだ。
ある者は声優に、ある者は同人誌に、ある者はアイドルに、ある者はオンラインゲームに、ある者はディズニーに、ある者は韓流スターに。
その対象のために日本中、いや文字通り世界を股にかけてお金と時間を注ぎ込み追いかけ続ける。
参加者たちは愛する対象に自分のお金を捧げるその行為を、浪費ではなく「愛」と呼ぶ。


彼女たちの経験は隠れ信者たちの信仰告白のように、それぞれ密やかな口調で語られるけれど、どれも破滅的で自虐的で、でもその大部分の底辺には喜びの感情が潜んでいて後悔の念は薄い。
いやむしろ、後悔するのは「なぜあの時に買わなかったのか」という点であるというところに彼女たちの心意気が見え、その挙句の経済的破綻すらむしろ英雄的であるとさえ思えてくる。
…私もおかしくなっているのかしら?いやいや違う、違う。
だって彼女たちは私たちでもあるのだから。


ミッキーマウスに愛(お金)を捧げるある女性の述懐を読むとよく分かる。

何かのファンをしている人は、お金を払う対象がいなくなってしまったら…という不安がどこかにチラつく瞬間があるんじゃないかと思う。ミッキーは「ご報告」「大切なお知らせ」のような不穏なワードを出してこないし、20年以上見てきているのに、昔と同じようにキレのあるダンスを踊って楽しませてくれる。…ミッキーはいなくならない。でもわたしはいつかいなくならなくてはいけない。逆に言えば、私が健康で多少のお金を持ってさえいれば死ぬまでミッキーの活躍を見続けられる。

ここを読んだ時には、不覚にも涙がこぼれた。
対象が何であれ、何かを一心に愛したいと願う、なのに愛することに対して傷つきやすくナイーブである彼女たちは、決して特別な人たちではない。
私たちは多かれ少なかれ、愛に対して一途で臆病、そうじゃない?


本書の読者は、ある者は共感し、ある者は「さっぱり分からない」と評するらしい。
確かに何に浪費するかという点で人それぞれの志向に差がある以上仕方ない。
だけど、そこには、正しいも間違いもない。
浪費は病気の症状でも特殊な性癖でもなく、人それぞれの自己表現であり、自己実現行為の一つなのだから。

浪費図鑑―悪友たちのないしょ話― (コミックス単行本)

浪費図鑑―悪友たちのないしょ話― (コミックス単行本)

「誰が音楽をタダにした?」 スティーヴン・ウィット 著

音楽はかつて、宝石のように希少価値のある貴重なものだった。

最近、音楽は「聴く」というよりもなんだか「消費する」と言ったほうがしっくりくる。
私の子どもの頃は「好きな音楽を聴く」ためには、その歌手が出演するテレビやラジオ番組をチェックし、家族団欒をこっそり抜け出したり、チャンネル争いに勝利しなければ(それさえも父の野球中継がない時に限られたが)聴くことはできなかった。
少し成長するとお小遣いを貯めてレコードを買い、親類の家でレコードプレイヤーやステレオを借りて聴いたり、友だちが録音したテープをダビングしてもらい何度も繰り返し再生したり。
音質なんて贅沢なことは考えたこともなかった。
だってあの頃、音楽はそのままで十分、宝石のように希少価値のある貴重なものだったのだから。


今はどうだろう。
あの頃あんなに手間暇かけて手に入れた「音楽」が、欲しいと思ったその瞬間に、時には無料で手に入る。
そしてそれは高音質で再生可能な小さな機械に何万曲も保管が可能で、貯め込んだ曲も指一本で消すことができるし、どんな所にも持ち運びできる。
当然ながら、日本レコード協会の統計を見ると、ここ10年、着実にレコード・CDの生産実績は低下し続けている。
そう言えば3年前、あるシンガーソングライターが「アーティスト的にはDL(ダウンロード)するよりもCD買ってくれた方が、将来につながります」「DLだとほとんど利益がないんだ」とSNSでつぶやいていたっけ。


さて本書は、こんな状況を作り出した張本人は誰なのかを探す…ではなく、音楽というコンテンツを巡り、堅固に構築された(と思われていた)ビジネスシステムが、ある画期的な技術革新や自己顕示欲に駆られた「音楽泥棒」たちによる海賊版リーク戦争によって、短期間に崩壊していくさまを描いたドキュメンタリーだ。
そしてこのドキュメンタリーは、古いシステムが燃え落ちたあと、灰の中から新しいビジネスモデルが生まれる過程を描くものでもある。
著者が5年に渡る綿密な調査と関係者へのインタビューによって明らかにしたその経過は、そこで生計を立てていた人には申し訳ないけれど、劇的でスリリングで、正直たまらなく面白い。


章を分け、4つの観点から本書は描かれる。
1つ目は史上最大のリーク源となった大手レコード会社のCD工場で働く男性の。
2つ目は革新的な音響データ技術開発者たちの。
3つ目はある音楽エグゼクティブの。
最後に音楽泥棒たちを追うFBIなど捜査官たちの。
それぞれまったく接点もなく別々の方向を見ていた彼らの行動が、やがて音楽産業を巡る「今ここ」へと絡み合い、結びつく。
しかし、私が衝撃を受けたのは、最後に著者がインタビューをした時、自分たちがかつての音楽ビジネスに対してしでかしたことに対して彼らはそれぞれ非常に無自覚であることだ。
故意なき、共謀なき、音楽産業に対する破壊行為。

「自分がなにをやってのけたか、わかってる?音楽産業を殺したんだよ!」

本書である人物が思わず漏らした一言。
科学者の好奇心や探究心によってなされた発明が多くの人の暮らしを変え、時には人の命を救うこともあり、場合によってはたくさんの人の命をも奪うこともある、ということはレントゲンや原子爆弾の発明などを思い起こせば明らかだろう。
また人の命とまではいかなくとも、数年前あるシンクタンクの「10〜20年後に、日本の労働人口の約49%が人工知能やロボットなどで代替可能」という発表や、インターネットの発展によりネット通販の利用が拡大し街の本屋や商店街を窮地に追い込んでいる様子などを見ると、急激な技術革新や構造変化は人の暮らしに大きな変化とある種の犠牲を強いることもわかる。


さて、本書に登場する人物たちの仕事への一途さやズル賢さ、爆発的なヒットに恵まれる一方でしゃぶり尽くされるミュージシャンやアーティストやインターネット上の聖域を守ろうとするオタクたちのある種の健気さ、ハリポタ作者の雇った弁護士事務所のやり口のエグさ(正当な権利に基づくとは言え)、それらを見ていると、音楽がいかに「お金」と分かち難く結びついているかを思い知る。
だからこそ致命的な変化となりうるのだけど。
しかし「お金」で成果をはかるなら、本書の登場人物の何人かは莫大な利益を得ている成功者だとも言える。
にもかかわらず、何らかの形で自分の期待や予想、理想を裏切られる結果になっているところが、音楽がお金だけで割り切れるものではないということの証拠かも知れない。
本書はそのことも教えてくれる。


「音楽産業を殺す」というのは本当に音楽ビジネスを巡るこの20年の変化を思うと、的確な言葉だと思う。
けれど、それだけでは十分ではない。
この変化は音楽産業に携わる人々から生計を立てるすべを奪い、それと同時に音楽というものの相対的な価値を貶めてしまったのではないかという気がするのだ。
いや、違う違う、音楽自体の価値は昔も今も人間にとっては大きなものであることは変わりない。
そうではなく、私が感じているのは、聴いては忘れ、簡単に捨ててしまえるようになったことで、人々の、音楽やそれを作る人への敬意が少しずつ失われていくことに対する怖さなのだ。
そしてパタパタと指でめくりながらレコードを探すときめきや、深夜ひとりで好きな曲が流れるのを待つ楽しい時間を失ってしまったという喪失感なのだ。


「市立ノアの方舟」 佐藤 青南 著

さまざまな制約の中で環境に適応しながら生きようとする動物たちのたくましさに、逆に人間たちが知恵やエネルギーを与えてもらっている。生きるものは皆、健気だなあとしみじみ思う。

このところ、興味をひかれるままにインターネットやAIに関する本や記事ばかりを読んでいたせいか、合間に読んだこの本が、なんだか心のどこかを柔らかくしてくれていたような気がする。

さて、本書は野亜市の職員である磯貝が、素人同然の身で廃園寸前の野亜市立動物園に新園長として赴任してくるところから始まる。
市役所内の政争に巻き込まれ、左遷同然でここに飛ばされた彼は、動物のことも動物園のことも何も知らないズブの素人。
しかし磯貝も飼育員たちの思いに触れて園の動物たちへの責任を自覚し、園の立て直しについても次第に積極的に関わることになる。
そんな新園長に反発する飼育員や、かつての使命感や情熱を失った飼育員、そして私生活の悩みを抱えた飼育員、諦めまじりで磯貝に接するベテラン獣医、毎日通う高齢の常連客、そして人間たちにはお構いなしにさまざまな難題を突きつけてくる動物たち…物語はそんな登場人物、いや生きものたちによって繰り広げられる。


動物園の経営を立て直すと言っても、単純に入場者を増やせばいい、という話ではない。
入場者を喜ばせる給餌方法、展示方法、何か変えたり工夫をしたりするにしても、果たしてそれはそれぞれの動物たちにとって快適であるのか幸福であるのか、という問いに常に向き合わなければならない。
もちろん動物の幸せは、本来生まれた野生の環境の中で暮らすことにある。
しかし、ここには園で生まれ、檻の中の暮らししか知らない動物もいる。
人間が自分たちの楽しみや教育のために、自然の中で生きるはずの動物を檻に閉じ込めているという罪、それでもここで暮らす動物たちを幸福にしてあげたいという願い。
動物園で働く人はそんなエゴと理想を抱えて働いている。


どんな仕事にも課題や障害があるけれど、自分では喜怒哀楽を伝えることができない動物を相手に、自問自答しながら仕事に取り組む飼育員の仕事には、答えのない課題を解き続けるようなつらさがある。
予想を裏切るような行動や反応に悩まされ、だけど同時に、動物たちの人間に向ける愛情や信頼に触れ、励まされたり慰められたり。
けれど、動物たちの行動の非合理さは、生きもののたくましさや柔軟性のあらわれでもある。
ここに収められた
アフリカゾウのノッコ
ホッキョクグマのネーヴェ
フラミンゴのロミオとジュリエット
ニシローランドゴリラのコータロー
の物語は、どの話でも、さまざまな制約の中で環境に適応しながら生きようとする動物たちのたくましさに、逆に人間たちが知恵やエネルギーを与えてもらっている。
生きるものは皆、健気だなあとしみじみ思う。


本書を読んでいると、物語が頭のどこかで自動的にドラマ化され、楽しい思いをした。

「人は人生で三度、動物園を訪れると言う。
最初は親に連れられて、二度目は親として我が子を連れて、三度目は孫を連れて。」

おそらく多くの人が一度は訪れている場所だからだろうか、頭の中に動物園のビジュアルが自然と浮かんでくるのだ。
いや、これはぜひドラマ化を希望したい。
おそらく一番難しいのは、動物役の演技指導だろうと思うけれど。

市立ノアの方舟

市立ノアの方舟

「神は背番号に宿る」 佐々木 健一 著

数字には魔法があり、それによって喚起されるドラマがある。


数字には魔法があり、それによって喚起されるドラマがある。
たとえば「0(ゼロ)」の起源やその哲学的存在感などを見れば、まさに魔法!という感じがするし、古今東西ひとが好むさまざまな占いの多くも、誕生日という数字をもとにその人の運命が語られる。
おまけに本書は、並々ならぬロマンを抱く方が多いスポーツ、「野球」をメインテーマに描かれた作品。
数字と野球が相性が良いのは「博士の愛した数式」で証明済みなので、この本もおおいに期待して手に取った。


本書はさまざまな野球選手の現役時代やその後を、背番号という数字を手がかりに語る、まるで「読むノンフィクション」とでも言いたくなる作品だ。
実はそれも当然で、本書はNHKBS1の特別番組「背番号クロニクル プロ野球80年秘話」の放送で取り上げきれなかった逸話をとりまとめたもの。
登場する背番号は「28」「11」「20」「36」「41」「4」「14」「15」そして「1」。
これを聞いて選手の顔やプレイが浮かんでくる人はきっと本書を満喫できるに違いないし、
TVでの父親の野球観戦に付き合った程度の薄っぺらい知識しかない私でも、不思議なもので、本書を読んでいると、著者が数霊(かずだま)と言う“選手の背番号に宿った霊力”のようなものが本当に存在するのではないかと思えてくる。
そして、それぞれの選手たちを襲うあまりに過酷な運命に、背番号こそがその原因であるかのように思えて恨めしい気持ちになってくる。


長嶋茂雄選手から「ライバルを一人挙げるなら」と名前を挙げられる実力がありながら、選手に不幸をもたらすという不吉な背番号を背負って満身創痍で戦い続けた選手の気概。
周囲の期待に満ちた背番号に苦しみ、最終的に短い現役生活を終えた選手の、それなのに今なお銭湯でついその背番号と同じ番号の下駄箱を選んでしまうというエピソード。
ある球団における、相応しい選手が「背番号1」をつけるのではなく、それをつける選手が「背番号1」に相応しく変わっていく、という不思議。
十数年も前に亡くなった選手なのに、その背番号をファンが慕い続け、球場のゲートにまで名前を残すという、愛される選手の条件のような何か。
不運とか甘えとか自己責任という言葉でくくると見えてこないドラマが、「神」と「数字」の組み合わせを加味することで生き生きと、そして切なく浮かび上がってくる。


できればハッピーエンドで終わって欲しい、そう願いながらも、なぜか本書の逸話はハッピーエンドよりも報われない結末の方が余計に心に残る。
他人の不幸に自分の不幸を仮託するようで身勝手なことだ、申し訳ないと思うのだけれど。
スポットライトを浴び大球場で満場の観客に拍手を送られる選手人生はもちろん素晴らしいに決まっている。
けれど、さまざまな要因によって結果としてひっそり消えようとした選手の、地方の小さな球場で有志によって営まれた手作りの引退セレモニー、そこに列をなして集まる観客たち、その光景のドラマチックなこと。
何度読んでも、そのエピソードでは涙があふれてしまう。


悲劇のヒーローになんて、誰もなろうと思ってなれるものじゃない。
ましてや、人から愛され、惜しまれ、記憶に残る悲劇のヒーローになんて。
だけど、不運や不幸に襲われ才能を十分に発揮できなかった野球人生は、その人もまた神の前では私たちと同じ小さな存在なのだと気づかせてくれる。
日の当たる場所に咲く花ばかりではなく日陰にひっそり咲く花を愛するのは、多くの人が報われない努力や虚しい希望を胸に毎日を懸命に生きている証かもしれない。
そして理解する人を得られないまま、どうしようもない寂しさを抱えて、独り生きているからかもしれない、そう思った。


神は背番号に宿る

神は背番号に宿る

「アーサー・ペッパーの八つの不思議をめぐる旅」 フィードラ・パトリック 著

人生に発見を、偶然を、ハプニングを、新しい出会いを!そしてそれらを受け容れ、違う世界に踏み出す勇気ある一歩を。

本書の主人公は、40年以上添い遂げた伴侶のミリアムを亡くし、毎日のルーティンワークに埋没することでなんとか生きている69歳のアーサー・ペッパー。
お向かいさんとは挨拶程度、心配して訪ねてくるお節介なお隣さんからは居留守を使って逃げ回り、母親の葬式にも出てこなかった娘、息子とはなんとなく疎遠になっている。
そんなアーサーだが、ある日思い切ってミリアムの身の回りの品を少しずつ整理することに。
ところがミリアムの遺品の中から、生前のミリアムからは見せられたことも聞かされたこともない八つのチャームがついたゴールドのブレスレットを発見し困惑する。


妻とは地元の町で偶然出会い、静かに愛を育み、同じ家で40年あまり暮らし、2人の子どもたちを一緒に育て上げた。
夫妻は毎日を同じように、しかし丁寧に愛情込めて過ごした。
自分たちは平凡ではあるが唯一無二で、その間にはなにも秘密はないと思っていたアーサー。ブレスレットに妻の「秘密」を感じ取り、それを知ることを怖れながらも、心に潜んでいた冒険を切望する気持ちに気づき、ゾウ、花、本、パレット、トラ、指ぬき、ハート、指輪の八つのチャームの由来を探求する旅に出ることを決心する…。


愛し愛される人がいるということは素晴らしいことではある。
しかしアーサーの暮らす世界は、ミリアムと子どもたちが中心で、その家族から繋がる友人や知人が世界の構成員だった。
そして子どもたちが巣立ったのち、ミリアムがいれば、アーサーにはそれで十分だった。
ところが、この旅をする中でアーサーは69歳にして初めて、彼とはまったく違う世界を持った「他者」がいることを発見する。

他の人間がどんな暮らしをしているのか、わずかでも考えてみようとしたことは過去になかった。国民全員が自分の家とまったく同じ間取りの家に住んでいるのだろうと、アーサーはそんなふうに思っていた節がある。自分と同じように、みな毎朝同じ時間に起きて、日課を着々とこなしているのだと。

自宅を出たアーサーは、トラに襲われたり、強盗にあったり、見ず知らずの人の家に泊めてもらったり、孤独な誰かのために手を差し出したり、妻以外の女性とデートをしたり。
その中で彼は知る。
この世界には自分とミリアムと子どもたち以外の他者が泣き、笑い、必死に自分の人生を生きている!
そしてアーサーは以前とは違う気持ちで、よく知っていると思い込んでいた子どもたちやご近所さんと向き合い、そして知る。
彼らが思いもかけない苦労と秘密を抱えていたことを。
うまく生きているように見えた彼らも、独り、それぞれの寂しさに耐えられずにいたことを。
アーサーと同じように。


先日、息子と膠着した社会的格差などを解くには何が必要なんだろう、という話をしていた。
もちろん、それは政策とか制度つくりとか行政の指導とか、そのような大きな枠組みで語ることもできるとは思うのだけど、主語が大きすぎて私たちが考えるには難しすぎる。
だけど個人のレベルで語ってみるなら、それは偶然の出会いとか突発的な事故とか、その人の生き方のルーティン、習慣を破るなにごとかではないかと話した。
確かにアーサーの膠着した人生を打開したきっかけは、ブレスレットの発見という偶発的な出来事だった。
けれど彼の生き方を本当に変えたのは、ドアを開ける、外に出る、人に会う、というささいな、けれど彼にとってはとても勇気のいる「行動」だったのだ。


人生に発見を、偶然を、ハプニングを、新しい出会いを!
そしてそれらを受け容れ、違う世界に踏み出す勇気ある一歩を。


アーサー・ペッパーの八つの不思議をめぐる旅 (集英社文庫)

アーサー・ペッパーの八つの不思議をめぐる旅 (集英社文庫)

「四人の交差点」 トンミ・キンヌネン 著

この家には、伝えなかった言葉があり、使われなかった拳銃があり、燃やされた手紙があり、家族にさえ言えない秘密がある。

これはフィンランド北東部の小さな村の増築が繰り返された不恰好な家に住む、ある家族の物語。
この家には、伝えなかった言葉があり、使われなかった拳銃があり、燃やされた手紙があり、家族にさえ言えない秘密がある。
互いの胸のうちに秘密を抱えたまま、理解できない家族のふるまいに怒ったり泣いたり傷ついたり…それでも、人は毎日を生きていく。
そんな家族の100年の物語。


本書はマリア、その娘のラハヤ、ラハヤの息子の嫁カーリナ、そしてラハヤの夫オンニの四人の章に分かれている。
数年おきに起きた小さな出来事が、時代を行ったり来たりしながら語られる。
時系列ではないので、違う章で同じ出来事を違う人物が語ると、出来事はまったく違う様相を見せて驚かされる。


マリアの章では、助産師が珍しかった時代に閉鎖的な地域でパイオニアとして生きていこうとした若々しいマリアの気概や、父親のいない一人娘とのすれ違い、そして彼女が拡大し続けた家、その家を破壊した戦争のことなどが描かれる。
ラハヤの章では、忙しい母親のもとで過ごした寂しい子ども時代、母と違う人生を望んでいながら同じ父親のいない子を持ち、守ってもらいたいと選んだ優しい男性との耐え難いすれ違い生活が。
カリーナの章では、どうしても好きになれない家と、終わりがないように思われた気難しい姑との戦いが。
オンニの章では、子どもたちの良き父親であり、なによりも「普通」でいたかった彼の必死の努力と挫折が描かれる。


4人の登場人物は同じ家族の一員だけど、母娘であっても、夫婦であっても、胸の奥の奥にしまい込んだ秘密を誰にも明かさない。
ところどころ増築を繰り返した不恰好な家は、まるで住む人たちの心の有り様を写しているかのようだ。
あとがきによると、フィンランドの人々というのは、「黙って、ひとりで、闘う人々なのだ」とある。
冬の寒さと、凍てつく空気、まっすぐに立つ樹々の姿…当然本書はシベリウスの「フィンランディア」を聴きながら読んだ。


あとがきには「窓もドアもすべて開け放ち、助けてほしい、と叫んでしまえたら、彼らはどれほど楽だったろう」ともあったのだけど、彼らの秘密はどれもそんなことができるものとは思えないし、彼らに「他人に打ち明けてみたら?」と言ったらきっとこう尋ねられるのではないだろうか。
「他人に打ち明けることで楽になってしまうような悩みなんて、そもそも秘密にする必要があるのか」
窓を開けて「助けて」と叫べる程度の秘密って「愚痴」程度のレベルぐらいでは。


昔から私には「本音で語る」というのがどういう状況なのかがよく分からない。
友人から「うちはみんな友だちみたいな家族で」なんて言葉を聞いて、羨ましいとか微笑ましいとかは思えず、正直「怖い」と恐怖を覚えたし、そもそも人は「本音」をあけすけに他人に語ることなんてできるのだろうかと疑問に思っている。
そう言えばよく他人に「みずくさい」と言われるなあ…フィンランドに生まれればよかった。


ちょうど本書を読んでいる時に、現在係争中のSNSにおけるアウティングがもとになった事件についての記事などを読んでいた。
事件そのものについては詳細が分からないのでなんとも言えないのだけれど、SNSという便利なコミュニケーションツールが「気持ちを共有すること」のハードルを低くしてしまったことで、逆に人の大切な「秘密」の取り扱いは難しくなってしまったのではないかと感じた。
つまり人が心許せる人を見つけて、自分の大切な秘密を、面と向かって、相手の反応を探りながら小声で語り合うチャンスを、テクノロジーの進化は奪ってしまったのではないか、と。
また人に何かを打ち明けることは、それが重大であればあるほど、打ち明けられた人にもリスクや重荷を背負わせてしまう行為だとも感じた。
相手を大切に思えば思うほど、なおさら伝えられないという気持ちが、きっと本書の登場人物たちにもあっただろうと思う。


だけどなにより私は、秘密やそれに伴う苦しみやつらさは、ずっと自分だけのものであって欲しいと思う。
どれほど痛みを感じても、私の秘密は私とともに生き、ずっと胸にしまい、人と共有なんてしたくない。
この本の登場人物たちが最後の最後まで秘密を抱えて、その重みで溺れるように人生から退場していく姿を見ても、その気持ちは揺るがない。
ただ、本書をよく読むと、実は彼らの秘密はいつの間にか次の世代、次の世代にひそかに伝えられていることが分かり、それはそれで救われる思いがした。
そして、その秘密の継承者が血の繋がりのない嫁カーリナであることが、またいい。
この家の秘密は、血ではなく、それを引き受けられる強さと感受性を持つ者に受け継がれていくのだ。


四人の交差点 (新潮クレスト・ブックス)

四人の交差点 (新潮クレスト・ブックス)

「死してなお踊れ 一遍上人伝」 栗原 康 著

いいよ、いいよ、すくわれちゃいなよ、いますぐに。

なんだかここ数日慌ただしい危機感にあふれたニュースがそこら中で氾濫している。
のんびりとした日々の雑感や日常のユーモア、ドラマの感想などが大部分だった私のTwitterのタイムラインにも物騒なツイートが混じり始めた。
のんびり楽しくツイートしていた皆さんも浮き足立つ、この「空気」の不気味なこと。


本書は鎌倉時代、中期の僧侶、一遍上人の生涯の伝記であり、著者によるその教えの翻訳である。
翻訳というのは変な言い方だと思うけれど、おそらく本書を読んだ多くの人には分かってもらえると思う。

いいよ、いいよ、すくわれちゃいなよ、いますぐに

よっしゃ、やってやろうじゃないか。たかだかオレ、されどオレ。

くだけた話しことばで書かれた文章は、一遍上人のラジカルな生き方を語るのにしっくりとくる。
どうしようもないやんちゃ小僧のことを苦笑まじりで語っているような、とても高僧の伝記とは思えないような語り口なのだけれど、おそらく一遍自身もこんな風に自分を語ってもらうのを喜ぶんじゃないかなと思ったりもする。


だって彼の生涯やその言動は弟子たちによって死後、記録されたものの、一遍自身は教学体系を残すことも、宗派を興すことにも興味はなく(時宗は弟子たちが教団化したもの)、いやむしろ群れること、規範となることを徹底的に否定した人なのだから。


一遍と言えば「踊り念仏」って学生の頃に暗記した。
でもそれ以外は知らなかった、彼がどんな言葉を遺したのか、彼にとって踊ることがどんな意味を持っていたのか。
一遍はただただ迷いの中で生きる大勢の衆生を救おうとした、いや「あなたは既に救われているんだよ」ということを伝えようとした実践の人だったのだ。
その実践が、本書ではまるでRPGのように、展開する。
まずは出家し、旅に出る、修行を積む、旅の道連れができる、人がついて来る、巨大な敵が攻撃を仕掛けてくる、逃げる、暴れる、踊る、踊る、踊る…!!


スティーヴン・キングの「11/22/63」の感想を書いた時にも触れたけれど、私たち人間は神の前でそれぞれのリズムで、それぞれのメロディで、それぞれの異なったダンスを、踊り続けている。
ときに誰かと触れ合うときや一緒に手を握り合うときもあるけれど、最期まで独りで自分のダンスを踊る。
一遍はその寂しさも知っていた。
だってこんなことを言っていたのだから。

生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人とともに往するも独りなり、そひはつべき人なき故なり

だけど、それでも、「踊ろう」と言い続けた。
念仏を唱えるだけでいい、踊って、空っぽになって、自分が既に大きな慈悲によって救われていることを感じよう、信じようと言い続けた。


一遍は、業病に罹り都や村落でつまはじきにされていた者たちに居場所を与え、年貢に縛り付けられていた農民たちには解放をもたらす。
それはそうだ、一遍はこんなことを言っているのだから。

身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖

全部捨てちゃえ、捨てようとする心も捨てちゃえって。
彼らの一部は逃散し一遍と一緒に念仏を唱え、施しで生きていく道を選ぶ。
当然ながら、支配者層にとっては一遍は邪魔なやつでしかない。
執権である北条時宗が、元寇、蒙古襲来によって国土が奪われる危機感を煽り、国を守る強固なシステムが必要だと説き、農民たちを統制しどこまでも搾取しようとしたこの時代に、そのシステムそのものを崩壊させかねない危険思想だ。
何もかも捨てろだって?冗談じゃない、国の危機にそんなことを言うやつは危険だ、排除すべきだ。
ちょっと待って。
なんだか最近、似たような話を聞いたような気がする…。


実はすでに現在、一遍の思想を受け入れる準備は出来ているのかもしれない。
あるとき誰かが、
「人はみな独りで生きていくんだよ、苦しいねえ、寂しいね、けどね、実は私たちはすでに大きな何かに救われているんだよ、さあいろんなものを捨ててみんなで踊ろう!生きながらにして往生しよう!!」
と言い出し、一斉に人々が踊り出す…そんな未来が来るんじゃないだろうか。
重苦しい空気の中で溜め込んだ熱いエネルギーがあふれる日が来るんじゃないだろうか。
そして、私はそのとき、一緒に踊るんだろうか、踊りを眺めているだけなんだろうか。


死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝