「神は背番号に宿る」 佐々木 健一 著

数字には魔法があり、それによって喚起されるドラマがある。


数字には魔法があり、それによって喚起されるドラマがある。
たとえば「0(ゼロ)」の起源やその哲学的存在感などを見れば、まさに魔法!という感じがするし、古今東西ひとが好むさまざまな占いの多くも、誕生日という数字をもとにその人の運命が語られる。
おまけに本書は、並々ならぬロマンを抱く方が多いスポーツ、「野球」をメインテーマに描かれた作品。
数字と野球が相性が良いのは「博士の愛した数式」で証明済みなので、この本もおおいに期待して手に取った。


本書はさまざまな野球選手の現役時代やその後を、背番号という数字を手がかりに語る、まるで「読むノンフィクション」とでも言いたくなる作品だ。
実はそれも当然で、本書はNHKBS1の特別番組「背番号クロニクル プロ野球80年秘話」の放送で取り上げきれなかった逸話をとりまとめたもの。
登場する背番号は「28」「11」「20」「36」「41」「4」「14」「15」そして「1」。
これを聞いて選手の顔やプレイが浮かんでくる人はきっと本書を満喫できるに違いないし、
TVでの父親の野球観戦に付き合った程度の薄っぺらい知識しかない私でも、不思議なもので、本書を読んでいると、著者が数霊(かずだま)と言う“選手の背番号に宿った霊力”のようなものが本当に存在するのではないかと思えてくる。
そして、それぞれの選手たちを襲うあまりに過酷な運命に、背番号こそがその原因であるかのように思えて恨めしい気持ちになってくる。


長嶋茂雄選手から「ライバルを一人挙げるなら」と名前を挙げられる実力がありながら、選手に不幸をもたらすという不吉な背番号を背負って満身創痍で戦い続けた選手の気概。
周囲の期待に満ちた背番号に苦しみ、最終的に短い現役生活を終えた選手の、それなのに今なお銭湯でついその背番号と同じ番号の下駄箱を選んでしまうというエピソード。
ある球団における、相応しい選手が「背番号1」をつけるのではなく、それをつける選手が「背番号1」に相応しく変わっていく、という不思議。
十数年も前に亡くなった選手なのに、その背番号をファンが慕い続け、球場のゲートにまで名前を残すという、愛される選手の条件のような何か。
不運とか甘えとか自己責任という言葉でくくると見えてこないドラマが、「神」と「数字」の組み合わせを加味することで生き生きと、そして切なく浮かび上がってくる。


できればハッピーエンドで終わって欲しい、そう願いながらも、なぜか本書の逸話はハッピーエンドよりも報われない結末の方が余計に心に残る。
他人の不幸に自分の不幸を仮託するようで身勝手なことだ、申し訳ないと思うのだけれど。
スポットライトを浴び大球場で満場の観客に拍手を送られる選手人生はもちろん素晴らしいに決まっている。
けれど、さまざまな要因によって結果としてひっそり消えようとした選手の、地方の小さな球場で有志によって営まれた手作りの引退セレモニー、そこに列をなして集まる観客たち、その光景のドラマチックなこと。
何度読んでも、そのエピソードでは涙があふれてしまう。


悲劇のヒーローになんて、誰もなろうと思ってなれるものじゃない。
ましてや、人から愛され、惜しまれ、記憶に残る悲劇のヒーローになんて。
だけど、不運や不幸に襲われ才能を十分に発揮できなかった野球人生は、その人もまた神の前では私たちと同じ小さな存在なのだと気づかせてくれる。
日の当たる場所に咲く花ばかりではなく日陰にひっそり咲く花を愛するのは、多くの人が報われない努力や虚しい希望を胸に毎日を懸命に生きている証かもしれない。
そして理解する人を得られないまま、どうしようもない寂しさを抱えて、独り生きているからかもしれない、そう思った。


神は背番号に宿る

神は背番号に宿る