「死してなお踊れ 一遍上人伝」 栗原 康 著

いいよ、いいよ、すくわれちゃいなよ、いますぐに。

なんだかここ数日慌ただしい危機感にあふれたニュースがそこら中で氾濫している。
のんびりとした日々の雑感や日常のユーモア、ドラマの感想などが大部分だった私のTwitterのタイムラインにも物騒なツイートが混じり始めた。
のんびり楽しくツイートしていた皆さんも浮き足立つ、この「空気」の不気味なこと。


本書は鎌倉時代、中期の僧侶、一遍上人の生涯の伝記であり、著者によるその教えの翻訳である。
翻訳というのは変な言い方だと思うけれど、おそらく本書を読んだ多くの人には分かってもらえると思う。

いいよ、いいよ、すくわれちゃいなよ、いますぐに

よっしゃ、やってやろうじゃないか。たかだかオレ、されどオレ。

くだけた話しことばで書かれた文章は、一遍上人のラジカルな生き方を語るのにしっくりとくる。
どうしようもないやんちゃ小僧のことを苦笑まじりで語っているような、とても高僧の伝記とは思えないような語り口なのだけれど、おそらく一遍自身もこんな風に自分を語ってもらうのを喜ぶんじゃないかなと思ったりもする。


だって彼の生涯やその言動は弟子たちによって死後、記録されたものの、一遍自身は教学体系を残すことも、宗派を興すことにも興味はなく(時宗は弟子たちが教団化したもの)、いやむしろ群れること、規範となることを徹底的に否定した人なのだから。


一遍と言えば「踊り念仏」って学生の頃に暗記した。
でもそれ以外は知らなかった、彼がどんな言葉を遺したのか、彼にとって踊ることがどんな意味を持っていたのか。
一遍はただただ迷いの中で生きる大勢の衆生を救おうとした、いや「あなたは既に救われているんだよ」ということを伝えようとした実践の人だったのだ。
その実践が、本書ではまるでRPGのように、展開する。
まずは出家し、旅に出る、修行を積む、旅の道連れができる、人がついて来る、巨大な敵が攻撃を仕掛けてくる、逃げる、暴れる、踊る、踊る、踊る…!!


スティーヴン・キングの「11/22/63」の感想を書いた時にも触れたけれど、私たち人間は神の前でそれぞれのリズムで、それぞれのメロディで、それぞれの異なったダンスを、踊り続けている。
ときに誰かと触れ合うときや一緒に手を握り合うときもあるけれど、最期まで独りで自分のダンスを踊る。
一遍はその寂しさも知っていた。
だってこんなことを言っていたのだから。

生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人とともに往するも独りなり、そひはつべき人なき故なり

だけど、それでも、「踊ろう」と言い続けた。
念仏を唱えるだけでいい、踊って、空っぽになって、自分が既に大きな慈悲によって救われていることを感じよう、信じようと言い続けた。


一遍は、業病に罹り都や村落でつまはじきにされていた者たちに居場所を与え、年貢に縛り付けられていた農民たちには解放をもたらす。
それはそうだ、一遍はこんなことを言っているのだから。

身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖

全部捨てちゃえ、捨てようとする心も捨てちゃえって。
彼らの一部は逃散し一遍と一緒に念仏を唱え、施しで生きていく道を選ぶ。
当然ながら、支配者層にとっては一遍は邪魔なやつでしかない。
執権である北条時宗が、元寇、蒙古襲来によって国土が奪われる危機感を煽り、国を守る強固なシステムが必要だと説き、農民たちを統制しどこまでも搾取しようとしたこの時代に、そのシステムそのものを崩壊させかねない危険思想だ。
何もかも捨てろだって?冗談じゃない、国の危機にそんなことを言うやつは危険だ、排除すべきだ。
ちょっと待って。
なんだか最近、似たような話を聞いたような気がする…。


実はすでに現在、一遍の思想を受け入れる準備は出来ているのかもしれない。
あるとき誰かが、
「人はみな独りで生きていくんだよ、苦しいねえ、寂しいね、けどね、実は私たちはすでに大きな何かに救われているんだよ、さあいろんなものを捨ててみんなで踊ろう!生きながらにして往生しよう!!」
と言い出し、一斉に人々が踊り出す…そんな未来が来るんじゃないだろうか。
重苦しい空気の中で溜め込んだ熱いエネルギーがあふれる日が来るんじゃないだろうか。
そして、私はそのとき、一緒に踊るんだろうか、踊りを眺めているだけなんだろうか。


死してなお踊れ: 一遍上人伝

死してなお踊れ: 一遍上人伝