「市立ノアの方舟」 佐藤 青南 著

さまざまな制約の中で環境に適応しながら生きようとする動物たちのたくましさに、逆に人間たちが知恵やエネルギーを与えてもらっている。生きるものは皆、健気だなあとしみじみ思う。

このところ、興味をひかれるままにインターネットやAIに関する本や記事ばかりを読んでいたせいか、合間に読んだこの本が、なんだか心のどこかを柔らかくしてくれていたような気がする。

さて、本書は野亜市の職員である磯貝が、素人同然の身で廃園寸前の野亜市立動物園に新園長として赴任してくるところから始まる。
市役所内の政争に巻き込まれ、左遷同然でここに飛ばされた彼は、動物のことも動物園のことも何も知らないズブの素人。
しかし磯貝も飼育員たちの思いに触れて園の動物たちへの責任を自覚し、園の立て直しについても次第に積極的に関わることになる。
そんな新園長に反発する飼育員や、かつての使命感や情熱を失った飼育員、そして私生活の悩みを抱えた飼育員、諦めまじりで磯貝に接するベテラン獣医、毎日通う高齢の常連客、そして人間たちにはお構いなしにさまざまな難題を突きつけてくる動物たち…物語はそんな登場人物、いや生きものたちによって繰り広げられる。


動物園の経営を立て直すと言っても、単純に入場者を増やせばいい、という話ではない。
入場者を喜ばせる給餌方法、展示方法、何か変えたり工夫をしたりするにしても、果たしてそれはそれぞれの動物たちにとって快適であるのか幸福であるのか、という問いに常に向き合わなければならない。
もちろん動物の幸せは、本来生まれた野生の環境の中で暮らすことにある。
しかし、ここには園で生まれ、檻の中の暮らししか知らない動物もいる。
人間が自分たちの楽しみや教育のために、自然の中で生きるはずの動物を檻に閉じ込めているという罪、それでもここで暮らす動物たちを幸福にしてあげたいという願い。
動物園で働く人はそんなエゴと理想を抱えて働いている。


どんな仕事にも課題や障害があるけれど、自分では喜怒哀楽を伝えることができない動物を相手に、自問自答しながら仕事に取り組む飼育員の仕事には、答えのない課題を解き続けるようなつらさがある。
予想を裏切るような行動や反応に悩まされ、だけど同時に、動物たちの人間に向ける愛情や信頼に触れ、励まされたり慰められたり。
けれど、動物たちの行動の非合理さは、生きもののたくましさや柔軟性のあらわれでもある。
ここに収められた
アフリカゾウのノッコ
ホッキョクグマのネーヴェ
フラミンゴのロミオとジュリエット
ニシローランドゴリラのコータロー
の物語は、どの話でも、さまざまな制約の中で環境に適応しながら生きようとする動物たちのたくましさに、逆に人間たちが知恵やエネルギーを与えてもらっている。
生きるものは皆、健気だなあとしみじみ思う。


本書を読んでいると、物語が頭のどこかで自動的にドラマ化され、楽しい思いをした。

「人は人生で三度、動物園を訪れると言う。
最初は親に連れられて、二度目は親として我が子を連れて、三度目は孫を連れて。」

おそらく多くの人が一度は訪れている場所だからだろうか、頭の中に動物園のビジュアルが自然と浮かんでくるのだ。
いや、これはぜひドラマ化を希望したい。
おそらく一番難しいのは、動物役の演技指導だろうと思うけれど。

市立ノアの方舟

市立ノアの方舟