「べつの言葉で」 ジュンパ・ラヒリ 著

今週のお題「方言」

たまたま今週のお題が「方言」だったので、参加してしまいました。

与えられた場所や言葉ではなく、自分が選んだ場所で自分が選んだ言葉を使って、考え、語り、書くことで、少しずつ人は自分の居場所を新たに得て、変わっていくことができるのだ。
「停電の夜に」や「低地」などの作品で知られるジュンパ・ラヒリの初めてのエッセイ集。
イタリアの週刊誌に半年間連載された21のエッセイと2つの掌篇小説で構成されているので、家事や仕事から離れたちょっとした空き時間に読むのに最適だ。
このエッセイ集、著者が初めてイタリア語で書いた本。
インド出身の両親を持つ著者にとって母となる言語はベンガル語であり、移民として身につけた英語は継母のような言語だと言う。
実母と継母との間でどちらにも違和感を感じつつ小説家となった著者が、ある時まるで雷に打たれたように第三の言語、イタリア語に恋をしてしまう。
そこからまるで徐々に遠泳の距離を伸ばすように、おぼつかない手技で手探りしながら湖の岸沿いをゆっくり周回していた著者は、いよいよ湖を横断したいと思う。
そしてイタリアに暮らすことを決意するのだ。


すでに小説家として英語で複数の作品を世に出し、輝かしい受賞歴もある著名な作家が、なぜ突然なんの縁もない国に行き、新しい言語で作品を執筆しようとするのか。
そのような疑問や、やめたほうが良いという忠告が多数の人から著者に寄せられたという。
しかし、著者には著者の、イタリア語でなければいけない必然、イタリアに住まなければならない必然があったのだろう。
アメリカに渡ることは自身の選択ではなく、両親の選択だったが、今度は自分の意思で、自分の選んだ国に住み自分の選んだ言語を使うのだから。
言葉ひとつ選ぶにも、文章ひとつ完成させるにも、ためらいと不安の中で少しずつ、その足取りが章を追うごとに確かなものに変わっていく様子は、生まれたての赤ん坊が自分の足で歩むまでの過程を見ているようで、胸ときめく。


その一方で、ふと、著者の3人の子どもたちは今後、果してイタリア語を母なる言語と感じるのか、それとも英語に郷愁を覚えるのか…私はそんな余計なことが気になってしまった。
それは私が、小学生の時に引越しを経験したからかもしれない。
国内での移動とはいえ方言の傾向がまるで違うため、級友との会話が互いにまるで外国語みたいで意思疎通が困難、こちらが口を開くと一斉に笑われた。
その時期、私は逃げるように本を読んだ。
そこに書かれていた言葉は日本中どの土地にも属しておらず、誰に対しても開かれていたから。
成人して、時折ひとに「喋っていてもどこの出身か分からないなあ」と言われて気づく。
あのころ私はそうやって無自覚に本の「言葉」を手掛かりに自分の言葉を、いや自分自身をつくり直したのかもしれない。


そうやって手に入れた新しい言葉は殻となり、それは、どこで暮らすにも使える汎用性の高いものではあったけれど、この頃感じることがある。
私のホームと呼ぶべき場所はどこなんだろう?生まれ故郷にも数十年間暮らした場所にもなぜか帰属感が持てない。
同窓会の知らせや同級生たちから届くさまざまな会の案内にも、誰に対して向けられているのか、他人ごとのように思えるときがある。
地元の球団やサッカーチームの勝利を特別な気持ちで味わったことがない(優勝セールにはちゃっかり参加させて頂くが)。
たぶん言葉というものは「どこかに所属しているという気持ち」と密接に関係しているのだ。


特に意識したわけではないが、本書を含め最近読んだ本の著者は、偶然にもさまざまな国からの移民またはその子弟だった。
もちろん、これだけグローバル化が進み、一方で戦争や政治的な問題で移民、難民が増加している現代では珍しいことではないのだろう。
ただ、それらの作品にはどれもはっとするほど繊細な言葉づかいや、寂しさの中に凛として屹立する強さがある。
それは、著者が自分の立ち位置、異なる立場の者同士のコミュニケーションについて、真摯に考えた証かもしれない。
どこかに所属することよりも、自分がどこでどのような言葉を使って生きて行くのかを真剣に考えた証かもしれない。


そう思うと、ある時期に、自分の使っている言葉について考える、悩む、苦労するという体験をすることは、決して無駄でもマイナスでもないのだろう。
図書館にこもる小学生の私にも、あなたが読む本の中に、紡ぐ言葉の中にホームと呼ぶべき場所ができるのだと教えてあげたい。
著者がイタリアに住み、イタリア語を学び使う意味。
与えられた場所や言葉ではなく、自分が選んだ場所で自分が選んだ言葉を使って、考え、語り、書くことで、少しずつ人は自分の居場所を新たに得て、変わっていくことができるのだ。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)