「セラピスト」 最相葉月 著

自分の心が知りたい、人に心開ける人間でありたい。本書は、そう願う人にこそ、読まれるべき本だと思う。


数年前、仕事場で「マニュアルを作って欲しい」という希望が新人さんの間から出ていると聞いた時、最初はなるほどと思った。
ところが話を聞いてみると、
「間違えたくないんです」
ニュアンスは違えど、異口同音にそう言う。
なぜだろう、私はマニュアルは作らない、作ってはいけないと思った。
理由を問われて、口を開けば様々な言葉が溢れるのだけれど、なんだかうまく言えない。
たまたま手に取った本書を読んで、この時の気持ちを思い出した。


本書は、「絶対音感」「星新一」などの著書をものした当代随一のノンフィクションライターが、我が国の心理学・精神医療分野の二つの巨星、故河合隼雄氏と中井久夫氏の業績や対話を中心に、現在に至るまでの心理療法の歴史を辿る大作である。
また著者は執筆にあたり、自分自身も大学院でカウンセリングを学び、同時に自身がクライエントとなり中井久夫氏のカウンセリングを受け、その過程も克明に記録する。
「あなたもこの世界を取材なさるなら、自分のことを知らなきゃならないわね」
あるカウンセラーからかけられたこの言葉に反発しながらも。


ご存知の通り、我が国における心の病の患者数は大幅に増加している。
そのことは私自身、日々の暮らしの中でも実感しているし、実際に統計などによればうつ病患者は100万人を突破したとも言われ、増加する患者に対応する医療体制は三分診療と陰口を叩かれるような状況だという。
しかし、我が国に心の病気を治療するという概念が諸外国などから導入され始めた揺籠期には必ずしもそうではなかった。
河合隼雄氏や中井久夫氏が患者と向き合い、その心に寄り添おうを考えた時に取った方法、箱庭療法風景構成法を始めとする絵画療法は1人のクライエントと時には何年もの月日、何回もの面接を経て施される治療だった。


そして著者は、それらの心理療法で尊重されるべきものは、言語化できないもの、つまりイメージであったり、ものがたりであったり、時には病気とは直接因果関係を見出せないものであると指摘し、なおかつ、それを引き出す大切な技法の一つが沈黙であると指摘する。


「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。…」

ーーセラピストの作業とは、主体の立つための場所を用意し、語りのための沈黙を準備するもの。


ところが、アメリカから導入された操作的診断基準であるDSMは、精神医療の標準化をもたらし、同時にその定義の広さゆえに精神疾患の患者を増加させることになった。
定義付け、そう、そこでは逆に心の病の「言語化」が尊重されている。


「患者さんの沈黙は、臨床医にとってもっとも困難な状態ではないでしょうか。今の精神医療の体系はほとんど言葉だけで作られていますから。言葉があって初めて診断することになる。特に今の若い医師たちは待つことができません。…」


言葉によって枠を作ることの安心感を取るのか、枠を持たないことに価値を見出すのか。
それは各人の生き方にも繋がる難しい問いだと思う。


そもそも、治る、回復する、とはどういうことなのか。


この疑問の言葉から始まった本書では、終盤、次のような言葉が紡がれる。


回復に至る道とはどんな道か。たんに症状をなくせばいいというのではない。かといって、ありのままでいいということでもない。クライエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしながら手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそっと手を差し伸べる。一人では恐ろしく深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける。同行二人という言葉が浮かんだ。


おそらくは、クライエントとセラピストのように人と人との関係には間違えないためのマニュアルなんて存在しない。
間違いを恐れつつ、けれど勇気を持って手探りで一歩一歩すすむ、そんな方法でしか言語化できない人の心の不思議に分け入ることはできないのではないだろうか。


著者はこの本を執筆するさなか、やがて自分の心の深淵を覗き込むことになる。
いやむしろ覗き込むためにこそ、自分はこの精神医療についての取材を始めたのではないかとも言う。
おそらく、私がこの本を手に取ったのもそうだったのだろう。
私自身が、自分の心が知りたい、人に心開ける人間でありたい、そう願ったからこそ、本書を手に取ったのだ。
本書は、そう願う人にこそ、読まれるべき本だと思う。


セラピスト

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