映画「ゼロ・グラビティ」

以前、過呼吸に陥ったことがある。
あの「空気!空気!」という感じ。
思い起こしただけで、その時の焦りと恐怖を思い出し手のひらに汗がわいてくる。
以来、時折自分の呼吸には注意をしている。
「すーはー、すーはー…」うん、大丈夫。
こんな習慣があるので、この映画だけは見てはいけないと思っていた。
ところが正月の暇を持て余した家族がどうしても、と言うのでビニール袋持参で行ってみた。
時折、自分を試したくなる時があるのだ。


いや、すごい。
最初の15分ぐらい本当に息苦しくて何度も深呼吸をしてしまった。
「酸素はあと◯%!」と主人公が口にするたび、自分で確認する。
大丈夫、ここには酸素があるから。
息ができるという安心感。
私は人間で、肺呼吸をする生き物で、そのように生まれついているのだ。
たとえ機会があったとしても、私は絶対宇宙に出ることは選ばないだろうと何度も思い、そんな機会が訪れそうもないことを何度も感謝する。


主人公はサンドラ・ブロック演じるライアン・ストーン博士。
彼女が今、宇宙にいる理由は明確に説明はされない。
彼女と、ベテラン操縦士らしい(?)マット・コワルスキーの2人の背景についてはもとより、数少ない登場人物である同僚の宇宙飛行士、通信士などについてもほとんどと言っていいほど、言及されない。
多分、宇宙における体験には地上においては重要なそれらは全く関係がないから。
映画の中でストーン博士が酸素のある船内に入ったところで胎児のように丸くなってゆっくり回転する場面があった。
まさに、彼女は胎児であり、まだ何者でもないことを象徴しているかのように。


宇宙にはなにもない。
生命がないというだけではない。
一面の砂漠などの景色を見た時に、「死の世界」と感じる時がある。
「死の世界」と感じるのは、そこで生あるものが生きていた痕跡を感じ取るからだ。
宇宙は違う。
そこに生の痕跡はない。
映像の中で漂う死体も、一瞬前までまとっていた生の衣を脱ぎ捨て、空っぽの抜け殻のようにしか見えない。


そこにあるのは、死ではない、無だ。


だからこそ、そこでは死は生と平等に並んで、選ばれるのをただ待っている単なる選択肢のひとつでしかない。
なんだろう、地上にはない、この絶対平等感。


立花隆の「宇宙からの帰還」の中で、ある宇宙飛行士がバックミンスター・フラーとの対話で、こう指摘される。(原典が見つからずうろ覚えですが…)
「宇宙には上下、縦横、高低の概念はないんだよ」


不思議なことに、生きている誰よりもストーン博士の死んだ娘にこそ「リアル」を感じる。
ストーン博士の語る彼女の「失くした赤い靴」が頭の中にスコーンと強烈なイメージとして鮮やかに浮かび上がる。
宇宙では上下、縦横、高低の観念がない上に、生と死も区別が曖昧になってしまうようだ。
そこでは死者はともにあり、彼女に語りかける。


この映画の原題は「GRAVITY」、つまり”重力”であり、邦題の「ゼロ・グラビティ」、”無重力”は真逆じゃないか!という批判の意見もあるようだ。
無重力空間における行動の違いや、実際の宇宙における各国の宇宙政策や活動との違いを指摘する意見もある。
なるほど、私たちはこんなにもこだわっているのだ。
「正しくある」ことに。
まるで、なにが正しいのか、何もかもわかっているかのように他人を批判する人々。
本当に息苦しいのは、窒息してしまいそうなのは、この地上の生活なのかもしれない。


それでも、ストーン博士は戻ってこようとする。
生のエネルギーを全開にして。
上下、縦横、高低の観念に縛られ、悲しいほどに「正しくあること」にこだわる私たちのもとに。
まるで生まれたての赤子のように、羊水のような水をくぐって。
力強く大地をつかんで。

ゼロ・グラビティ 国内盤

ゼロ・グラビティ 国内盤