「家康、江戸を建てる」 門井 慶喜 著

江戸という町が作られる過程で、天与の才、天稟を発揮しその礎を築いた人々を描く連作集。


本書は、徳川家康豊臣秀吉から関東八か国への国替えを命じられた場面から始まる。
この時、家康は四九歳。
決して若いとは言えない年齢にもかかわらず、家康は国替えに反対する本多忠勝井伊直政ら家臣を前に「ここを、わしは大坂にしたい」と声高らかに宣言する。
当時、大坂といえば人も物も富も集まる天下一の大都市。
東国の藁葺きの民家が集まる漁師町に過ぎない江戸を、どうやって「大坂」にしようと言うのか、彼の頭にはどのような手順や設計図が浮かんでいたのか…。


さて、家康の江戸の大坂(大都市)化計画。
まずは土地、だ。
第一話では、水浸しの湿地である江戸を実り豊かな地に変えるよう家康に命じられた伊奈忠次利根川の流れを変えることに挑む。
当時、現在の東京湾へと注いでいた川の流れを銚子へと移動させる東遷事業だ。
この東遷により新田開発が可能な土地が増え、水害も減り、水上運送も活発になったのだが、完工までには60年もの歳月が費やされ、家康も、彼に一任された伊奈忠次とその子たちもまた完成を見ることはなかった。

また第二話では、江戸で流通する金貨の鋳造事業を取り上げる。
豊臣と徳川の戦いは武力だけでなく、金融経済の部分でも行われていたのだ。
そしてこちらの方は京都の後藤家、江戸の橋本(後藤)庄三郎との戦いでもあった。
関ヶ原も天下分け目の貨幣戦争の結末も、ドラマチックだ。

第三話は、飲料水となる水を引く水道工事だ。
菓子司であった大久保藤五郎、水源地の百姓であった内田六次郎、そして技術官僚である春日与右衛門らがそれぞれ得意分野を活かしつつ難工事に挑む。

第四話では、江戸城の石垣の石積み工事を取り上げる。
石の採取を行う「見えすき吾平」と呼ばれた石の節理を読む能力を持った石切を主人公に、何人もの犠牲者を出す城の普請事業の様子を描く。
加藤清正の石垣普請の様子などを描き、二度の地震に耐え、今も櫓を支える熊本城の一本石垣の記事を思い出し胸があつくなる。

そして最後の第五話では、いよいよ天守閣の施工工事だ。
天守閣の必要性そのものに疑念を呈する後継者秀忠に、家康はなぜ天守閣が必要なのか、それも外壁をなぜ調達の難しい漆喰塗りの白壁にするのかの答えを自分で探せと謎をかける。
秀忠はこの答えを見つけ出すことができるのか。


いずれもまさに江戸版「プロジェクトX」。
未開の地とはつまり未来のある土地、そう信じてここを舞台に博打を打とうとした家康の賭け、そしてその結果は私たちのよく知るところである。


先日立ち寄った飲食店で、アルバイトらしき女性の動作に見入ってしまった。
間口の小さなお店なのだが、引き戸の前でメニューを見ている人影を見たらすかさず、しかしさりげなく「今テーブルが1席、カウンターが2席空いてますよ」などと声をかける。
注文の品を運びながら確認しているのか、そっとお茶を注いだり、汁や水がこぼれたテーブルには、いつの間にか布巾がそっと置かれている。

一緒にいた夫に「すごいね」と言ってみたが、「なんのこと?」と気づいていない。
精算の時に何か一言をと思っていたら、隣席の高齢の男性が彼女に「あなたは素晴らしいね!本当にありがとう!」と声をかけていた。
よかった、やっぱりわかる人にはわかるのだ。
「え?なに?ナンパ?」と訝しがる夫、おい。
気の利く人というのは沢山いるが、その仕草に時々押しつけがましさを感じることもある。
彼女に見惚れたのは、自分の仕事を受け手に「してもらった」と感じさせないから。
お茶も布巾もまるで最初からそうであったかのように客は自然に手に取っている。


江戸という町が作られる過程で、天与の才、天稟を発揮してその礎を築いた人々。
その「仕事」は本書のように取り上げられない限り、それを享受している人には意識されないし、人の目に触れ讃えられることもない。
けれど、安心して毎日を暮らせること、その安全な暮らしは誰が築いたのかということを住民たちが意識せずに暮らせているという事実が、彼らの仕事の真価であり誉れなのだ。
先日の地震を経験し、改めてそんなことを考えるようになった。
人が知らない、分からないところで、あえて気付かれないように大切な「仕事」をする方たちへの感謝と、その仕事が報われますようにと願わずにはいられない。


家康、江戸を建てる

家康、江戸を建てる