「この世にたやすい仕事はない」 津村 記久子 著

こうして思いもよらない仕事を短期間に次々体験することは、人が人生の中でかなり多くの時間を費やす仕事というものを客観的に見つめ直す良い機会なのかも知れない。

以前、美容室は行きつけがあるタイプか、それとも初めての方割引などがある美容室を転々とするタイプか、というのが職場で話題になった。
昔から人見知りのところがあり、人間関係の変化に弱い私は行きつけのあるタイプで、美容師さんともじわじわと知り合って馴染んでいくと、そこから別の店に変わるということがなかなかできない。
ところが先日数年来通っていた店の担当の美容師さんから店を移ると聞かされた。
出来れば、新しい店に来ませんかと誘われたのだけれど、悩んでいる。
犬は人につく、猫は家につくと言う。
親しくなった美容師さんとの別れもつらいが、何年もの間通った店(と貯め込んだポイント)に対する愛着もある。
どうしたものか。


本書は、前職をある理由で退職した主人公の女性が、職安で正門さんというベテラン相談員さんにさまざまな(変な)仕事を紹介され、そこで精一杯働きながら、なぜかいつもズレた気持ちを抱えて退職し別の仕事を紹介される…という連作短編集。
(変な)と書いたのは、本当にこんな仕事があるの?というくらい正門さんに紹介された仕事が変わっているから。

ちなみに主人公の就いた仕事の遍歴は
①監視カメラで1日中対象者を監視する仕事。(第1章「みはりのしごと」)
②バスの車内で流されるアナウンスを作る仕事(第2章「バスのアナウンスのしごと」)
③おかきの袋に印刷される「豆知識」の原稿を作る仕事(第3章「おかきの袋のしごと」)
④家の壁などにポスターを貼ってもらうよう頼む仕事(第4章「路地を訪ねるしごと」)
⑤広い森林公園の事務所(小屋)で雑用をしながら見張りなどをする仕事(第5章「大きな森の小屋での簡単なしごと」)
と、少なくとも私はあまり聞いたことのない仕事だ。
おまけに、だんだんわかってくるのだけれど、仕事も変だが、主人公もかなり変なのだ。


主人公の女性、前職(最後に明らかになるのだけれど)では人間関係のトラブルやバーンアウトて退職を余儀なくされたということだけれど、おそらく真面目な人なのだろう。
まず仕事には一生懸命に取り組む。
例えば1日中監視している男性の買い物事情に影響され次々に同じものを購入してしまったり、おかきの袋の豆知識を考えすぎて帰宅後もそればかりを考えてしまったり、ポスター貼りをする中でご近所の方々を取り込もうとするカルト集団に気づきその事務所に変装して乗り込んだり…。


そう、一生懸命に、時にやりすぎなほど一生懸命に仕事に取り組む。
たぶん、これこそが主人公が前職を辞めた原因であることは想像に難くない。
主人公のこの性向は、本人にとってはかなり深刻かも知れないが、読者にとってはまったく逆の感情を呼び起こす。
吹き出しそうなくらい、ただただ、面白いのである。
人は一生懸命さが過ぎると、客観的に見ると”滑稽”になってしまう、ということがしみじみ感じられた。


考えたのだけど、一人の人間が一生のうちに携わることのできる仕事は一般的にはせいぜい3〜4種類というところではないか。
この世にはあまたの職業があるにも関わらず。
私自身できるだけ多くの職業を体験してみたいと思っていたけれど、学校を出て初めて仕事に就いてこのかた、これまで経験した仕事の数は、片手の指で足りるほど。
残念ながら主人公ほどの変わった仕事はできなかったが、それぞれに今考えれば、職場ごとの変なルールがあったり、その時々の昂揚感があったり、やっぱり端から見ると滑稽なのかも知れない。
もちろん、どこの職場でも一生懸命だったけれど、こうして短期間に思いもよらない仕事を次々に体験するというのは、人が人生の中でかなり多くの時間を費やす仕事というものを客観的に見つめ直す良い機会なのかも知れないと思う。


主人公もこれらの仕事での経験を通じて少しずつ変わり、最終的に自分が本当に就くべき仕事はなにか、という問いに向き合うことになる。
本当は最初から向き合うべきだったのだけれど、明らかに5つの仕事を経験する以前より主人公は冷静に、しかも強くなっている。
ちょっと待て!これはすべて正門さんの陰謀だったのでは?
さすがベテラン相談員…私も正門さんに相談したい。


さて、美容室の問題。
娘にどうしたらいいだろう、と聞いたら、
「お母さんが『その美容師さんじゃないとダメ』と思えるかどうかじゃない?」
なるほど。
仕事も多分そうなのだろう。
その人じゃないとダメだと他人に思われる、自分の仕事がそんな仕事になるように。
私も主人公のように、ただ毎日「どうかうまくいきますように」と祈り、全力を尽くすことしかできないけれど。

この世にたやすい仕事はない

この世にたやすい仕事はない