「フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち」 マイケル・ルイス 著

アメリカの証券市場を取り巻く「陰謀」としか言いようのない状況と、それを正すために動く男たちを描くノンフィクション。公平、公正な金融市場を作るという彼らの戦いは、私たち日本人にとっても他人ごとではない。

私は陰謀論マニアである。
仕事柄人の話を聞く機会が多く、同僚からも「今日はこんな陰謀論を聞いたよ」と情報が集まる。
陰謀を巡らせているのは、メジャーなところでは某大国、もしくは芸能人、大企業、ちょっとしょぼいが親類とか同級生とか親とか子どもとか変わり種では火星人とか。
相手はさまざまだけれど、陰謀論を発する人には割とわかりやすい共通点がある。
彼らはみんなこう思っているのだ。
「自分は誰かのせいで損している」


本書はアメリカの証券市場を取り巻くまさに「陰謀」としか言いようのない状況と、それを正すために動く男たちを描くノンフィクションである。
証券市場と言うと指でサインを送り値をつける場面などが頭に浮かぶかも知れないが、1987年の大暴落ののち、アメリカの証券市場は電子化が進み、今では売買はワンクリック、人力に代わってコンピュータが行うシステムとなっている。
また市場と言ってもその種類は国法取引所から私設市場で取引を行うダークプールまで多様で、それらは広大で複雑なネット網で結ばれている。
そのためワンクリックといえど、いかに早く注文を入れることができるのか、どれだけ早く市場に取引情報を反映させることができるのか、そのための通信網と通信技術を持ち得た者がアドバンテージを握る、スピードがすべて、それが現在のウォールストリートである。


しかしこのシステムを悪用する者がいる。
たとえばAという株を誰かが買おうとしている、その情報を先に知り得たら?
そう、先にAを自分が買い、買値よりも高い値をつけて売りつければいい。
「先に」、そうワンクリックのその先、ミリ秒、マイクロ秒、ナノ秒という瞬間(フラッシュ)のタイムラグを使って。
後出しジャンケンの絶対勝者、それが超高速取引業者だ。


2007年から数年間をかけて、この事実に気づき声を上げたのが、カナダロイヤル銀行(ウォールストリートではほぼ二軍)のブラッド・カツヤマ。
しかし調査が進むにつれ、実はこのイカサマには、利ざや稼ぎを行う大手投資銀行やブローカーたちも加わっており、ほぼ全員が個人投資家の資金を食い物にしている捕食者であることが判明する。
システムを監視するはずのSEC(証券取引委員会)の職員でさえも天下り先が超高速取引業者、またはそのエージェントという体たらく。
ブラッドは200万ドルもの収入を捨て、一人、また一人と仲間を増やしながら公平な市場の実現を目指そうとする…。


金融用語や電子商取引に関する用語もありながらワクワクしながら一気読みできたのは、著者があの「マネー・ボール」のマイケル・ルイスだからこそ。
ブラッドの仲間となる面々たちもそれぞれ異なるルーツや異なる動機を持っていながら、少なくても第一の目標は金儲けではない。
一癖も二癖もあるメンツなのだが、一国の証券市場を一新させようなんて取り組みに参加する人なんて、どこか変わっているに決まってる。
映画「ウルフ・オブ・ウォールストリート」でも狂乱を晒していたが、一方で公平な市場を実現させるべくリスクを払ってこんなメンバーが集まってくる、ウォールストリートの、アメリカの多様性の見事なこと。


人の心を安定させているのは「なんだかんだ言って、みんな同じように苦労して努力してるよね」という「お約束」だ。
社会を、人の心を不安定にさせたければ、誰かが不正に利益を得ていると指摘するとか暴露すればいい。
その結果どうなるかは、人心を荒廃させるネットの炎上騒ぎや、「呪い」の言葉を使って人々の怒りの矛先をコントロールしようとするアメリカの大統領候補者の様子を見ていればよくわかる。
それが果たして人を幸福にしているのかどうかも。


不正を暴くことはもちろん重要なのだが、私が陰謀論にこれほどこだわるのは、陰謀論の背後に潜む不公平に対する怒り、不公正に対するあきらめというものが人の心にもたらす傷、無力感が社会に悪影響を及ぼしていると考えるからだ。
それは、不公平も不公正もそれは必ず正される、という事実の積み重ねによってしか払拭されない。


不正に気づき、それを正すべきだと考えたブラッドたちは、なんと新しく自分たちで証券市場を立ち上げる。
まずは私設取引所ダークプールを開設、そしてさらにネットで調べてみると、2016年4月現在、彼らは自分たちの新しい証券市場IEXをアメリカ13番目の国法取引所とするべくSECに認可申請中とのこと。
さてアメリカの金融業界は、この公平さや公正さを求める動きにどう対応するのか、非常に気になっている。
日本でも年金資金の運用損失が問題になっているが、今後この資金を株式に積極投資を行うというニュースを見てゾッとした。
超高速取引業者にとってまさに"鴨がネギを背負ってやってくる"状態。
公平、公正な金融市場を作るという彼らの戦いは、私たち日本人にとっても他人ごとではまったくない、のである。