映画「ルーム」

「世界」とは、その人自身が引いた境界線の内側のことだ。

映画の冒頭、何十分間か続く母と子、ママとジャックの日常。
キッチンと一緒になったリビングにむき出しのバスタブが見える狭い部屋、そして2人が目覚める小さなベッド。
浴室でストレッチやヨガをして、シンプルな食事をとりながら「ビタミンを飲むように」とママがジャックに言う。
はめ殺しの小さな窓と天窓、写りの悪いTVなどが映され、ところどころ違和感を覚えるセリフが続き、やがて2人の置かれた状況が見えてくる。
彼女らが、なぜか開けようとしない扉、それは「開かない扉」なのだと。
そして2人のもとに定期的に訪れる男”オールド・ニック”。
彼がママをさらい、このルームに閉じ込め、ジャックは彼女がその後産んだのだと。


ある日、”オールド・ニック”から失職したことを聞かされたママは、2人が暮らすこのルームを支える食料や電気などが失われる可能性(それは2人の生存に関わる重大な問題だ)を考え、脱出を目論む。
もちろん、男の失職は大きなきっかけではあるのだけれど、私はママが脱出を決意した別の理由を推察せずにはいられない。
それは、5歳の誕生日にジャックがケーキに立てるローソクがないと嫌だと駄々をこねるシーンを観た時に感じたこと。
もちろんローソクが欲しいと言われても、この状況下ではすぐに用意ができるわけではない。
外の世界では簡単に手に入るローソク、それは他の子供であれば容易に手にすることのできる「可能性」のようなものだ。
それを、親である自分が我が子に与えることができないという不甲斐なさ。
ジャックが生まれてからずっとそういう思いを積み重ねてきたのであろうママの親としての悔しさがここで限界に達したのではないだろうか。


その後、知恵を絞り、ルームを脱出した2人。
ママはしかし、自分がいなくても何事もなかったかのように平穏に時を重ねていた外の世界、そして自分のいない間に離婚した両親や、孫であるジャックを受け容れることができない自分の父親、善意や好奇心で近づく他人などに傷つけられ、疲弊する。
思えば彼女も「ママ」であるだけではなく、「ジョイ」という名の、大切な7年間を理不尽に奪われた少女でもあったのだ。
ジョイは7年間ふたをしていた感情をあふれさせ、壊れてしまう。


先日、息子と話をしていたら、なんだか急に「分かった」と思ったことがあった。
ああ、この子は「私」とは違う存在なんだ、「私」の作った世界を超えた存在なんだ。
自分が産んだ子どもだからだろうか、彼の成長を期待しつつ、一方でその成長は自分の枠の範囲内でしか想定出来ていなかった。
だから想定外の彼の言動に腹立たしい思いをしていたのだけれど、その時、急に腑に落ちた。
彼の成長に「枠」をはめていたのは私だったのだ。
そしてその枠は私が彼をこの世に送り出したというひときわ傲慢な意識によって引かれた境界線だった。
「世界」とは、その人自身が引いた境界線の内側のことだ。
私が子どもに対して勝手に引いた境界線は、子どもの世界を狭くし、同時に私の世界をも狭くしていた。


慣れた世界で生きていく方が容易く、新しい世界に飛び込むのはいつも勇気を必要だ。
新しい世界に飛び込むため、時に人は他者の力を必要とする。
ジョイがルームを脱出しようと決心できたのも、ジャックという守るべき存在があったからこそだ。
そして、ジョイがジャックに教えたように、パワーというものはサムソンに神が授けたようにその人自身に宿るだけでなく、他者との繋がりの中で分けてもらうこともできるものだ。
子どものジャックはルームを脱出し、まぶしい外の世界に触れママ以外の他人と関わることで、柔軟に自分の手でその世界を広げていく。
そして彼のパワーは、壊れたジョイを支えるほどの力強いものになる。


この映画のラストでジャックが、閉じ込められていた部屋を見て「小さい」と言う。
それは外に出たからこそ得られる感慨なのだ。
「小さい」と感じることができるのは、ジョイとジャックが、外に出て、それぞれがより広い新しい世界を作り始めたという証なのだ。
そして2人はそれぞれ、自分たちの全世界だったルームに潔く別れを告げる。

「さよなら」

慎重に、けれど勇敢に、境界線を引き直しながら、それぞれが自分の新しい世界を作り続けるために。

ルーム

ルーム

部屋

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