「盗みは人のためならず」 劉震雲 著

ドミノ倒しのように、事件が事件を呼び、次々に人々が巻き込まれ大騒動になる。このテンションの高さ、嫌いじゃない。いやむしろ大好き。

先日職場で受けた研修で、どうしてだろう、すごくモヤモヤしてしまった。
困っている人のために、とても熱心に力を尽くしている団体の職員の方が講師で、研修はその組織の理念・構成や活動内容についての講義だったのだが、その中で、何度か支援対象となる方について「(私たちの活動によって)間違いに気づき生活が向上した」「意識のレベルが上がった」「出来なかったことが出来るようになった」などの説明があった。
聞いているうちに、だんだん荒々しい気持ちが湧いてきて、ある問いが頭を巡った。
人間って、間違えたらいけないんですか?


本書は、北京に住む劉躍進(リュウ・ユエジン)という男のウエストポーチが盗まれたことを皮切りに、次々にまるでドミノ倒しのように事件が別の事件を呼んで巻き起こる大騒動を描く。
人はパンのみにて生きるにあらず、とは言うけれど、やはりこの世で一番大切なのはお腹を満たすパンであり、そのパンを買うお金である。
というわけで、その大騒動の渦の中心はすべて「お金」。
劉が離婚後に受け取れるはずの手切れ金や、賄賂の金、役人が収賄の証拠となるUSBと引き換えに渡す大金、ひと山当てるための資金、それぞれが背負っている大小の借金、登場人物たちがそれらのために東奔西走するさまは、ただただ目まぐるしくて、そのズルさ、セコさ、惨めさはいっそ清々しいと言って良いほどだ。


そもそも劉躍進がウエストポーチを盗まれる前に、ドミノのコマは神である作者の手によってすべて並べられていたのだが、悲しいかな、神ならぬ身の登場人物たちは俯瞰する目を持たないのでこの大騒動の全体像を把握することはできず、右往左往するばかり。
劉躍進の妻がもと同級生と浮気をした挙句に再婚してしまったことも、不動産業者が役人に長年賄賂を渡していたことも、その不動産業者が妻に内緒で女優と浮気をしていたことも、またその妻が泥棒に狙われていたことも…。
すべては蜘蛛の巣のように、一つの穴から出てきた糸を用心深く編みこみ、編み込みしてできた美しくも複雑な模様であり、読者はその模様を作った著者の手の見事なことに感心するしかない。


さて、その著者である劉震雲(リュウシンウン)さん、この方もなかなかの人物だ。
河南省の農村の出身で、文化大革命中に中学を出て、15歳で人民解放軍の兵士となり、文革後、超高倍率の全国統一大学入学試験で河南省の文系受験生トップの成績で名門北京大学の中文科に合格したという。
その後、新聞記者をしながら発表した作品が次々にTVドラマ化、映画化され、著者自身も映画に出演するなど本書の描写から想像するに、才能豊かでユーモアにあふれた人物であることは想像に難くない。
一方で「温故一九四二」(ルポルタージュ形式だがこれもすごい作品!)という1942年に河南省で発生した大飢饉と農民を見捨てた蒋介石、それを侵略軍である日本軍が(戦略的な目論見から)軍糧を放出して助けたという、史実に基づいた、彼の国ではリスクの高い作品を発表、さらにそれを映画化するなど、ドンと腹の据わった人物のようでもある。


どの登場人物もずるくて、がめつくて、野卑で、たくましい。
目的のためなら、友も、妻も、親も、息子も裏切ってしまう。
ほとんどが借金持ちか詐欺師か泥棒で、いつもお金のことでもめていて、いつも誰かが誰かを殴っているか騙しているというカオスな世界。
ただただ脊髄反射的に「生きる」というエネルギーに突き動かされ、彼らは理不尽なこの世の中を走る、走る。
愚痴ばかりこぼして自殺を考えていたダメ男の劉が、最終的に大物小物を問わず多くの人から命を狙われるに及んで、絶対死なないと思うに至るというくだりには、ユーモアの中になんだかワクワクするような不思議なパワーを感じた。


たぶん人間としてみんな間違っている。
だけど、この人々のなんて生き生きとしていることか。

人間って、間違えたらいけないんですか?

間違えてばっかりで、意識も低くて、まったく向上する見込みもなく、同情も共感もできない人たちにも関わらず、だけど、だからこそ私はこの登場人物たちが大好きなんだと思う。
正しいことだけが褒められる整然とした美しい世界ではなく、混沌としたこのカオスで生きたいと思う。
たぶん、私もまた間違える人間だから。


盗みは人のためならず

盗みは人のためならず