映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」

一枚の絵画を巡り、オーストリアという国と、一人の女性と若き弁護士が裁判で争う…この設定だけでも人々の足を映画館に運ばせる要素としては十分だ。けれど、この映画の見どころは、なによりも「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」という作品の魅惑的で忘れがたいその美しさなのだ。

かつてクリムトが、恋愛関係にあったとも言われる女性アデーレ・ブロッホ=バウアーを描いた黄金に輝く美しい肖像画
それはユダヤ人排斥の動きの中でナチスドイツに没収され、戦後はオーストリアの美術館に収蔵されていた。
この映画の主人公の一人アリアはこのアデーレの姪にあたり、ナチスドイツの侵攻の際、命からがらアメリカに渡り、82歳の今もこの地で暮らしている。
そのマリアが、新たに制定された法律に基づき、この名画の所有権を主張し返還を要求したいと相談を持ちかけたのが、もう一人の主人公である若き弁護士ランディ。
彼もまたアメリカに渡ったユダヤ人の子孫なのだが、優秀なご先祖とは違い、うだつが上がらない。
アリアの無謀とも言える試みを最初は現実味のない戯言のように受け取るランディだが、やがてオーストリアに渡りマリアの作品に対する愛情、自分たちの祖先の受けた仕打ちについて知るうちに、マリア以上にこの作品の返還に真摯に取り組むようになる。


この映画は、人生の機微も自分の先祖たちへの尊敬も仕事への情熱もまだまだいまひとつの一人の若者の成長物語とみることができる。
しかし、それと同時に、82歳という年齢の女性が人生の終盤にさしかかった今になって自分の中の弱さや恐怖と向き合い、それを克服する物語でもあると言えるだろう。
そして私はマリアのこの勇気ある物語にこそ心惹かれてしまう。
多分それは私もまた人生の折り返し地点を過ぎたからなのだろう。


年をとって何が変わってきたかって、なによりも堪えるのは持久力が減ってきたこと。
体力はもとより、怒りも喜びも悲しみも、若い時に比べると長続きがしない。
それは人付き合いにプラスに働くこともあるが、一方で心の振幅幅が狭くなり世界から色彩が少しずつ失われていくような淋しさが募る。
ちょっとそれは危険じゃない?やめた方がいいんじゃない?
そのような声が何かを決断する際にいつも聞こえる。
それは賢者の声か、それとも臆病者の声なのか?


劇中、マリアがためらいや恐怖に屈し、ウィーンの街に戻りたくないと弱音を吐くシーンはことさらつらかった。
寂しさを克服したと思っていたら、実は覆いで目隠ししていただけだったと思い知る。
自分の弱さを突きつけられ、まるでアメリカで暮らした今までの日々さえも否定され、足元が危うくなるような恐怖に襲われる。
それを弁護士ランディは彼女の意気地のなさだと非難するが、違う、違うと言いたくなった。
昨日までの友人知人や、国家そのものにまで裏切られ、親族と生活の基盤を失う体験を通じて、彼女は本当の恐怖を知り、賢くなってしまったのだ。
その賢さは、若さゆえの暴走や失敗から彼女を守るけれど、一方で新たな挑戦や冒険から彼女を遠ざけるのだ。


人は自分を肯定して生きていきたいと思っている。
できれば、今までの人生は失敗だったとは思いたくない。
長く生きて身につけた知恵と経験が「やめた方がいい」と言っているなら、できればその言葉に従いたい、
そして、結果として失敗を免れたその経験によって、それが習い性になるのだ。


それを打破するのが、相棒ランディの存在だ。
彼には知恵も経験も不足している、彼女がかつて味わった絶望感と無力感を知らない。
だからこそ、彼は挑戦できるのだ。
無謀で、ある意味で乱暴な彼の強さが、マリアに自分の弱さを気づかせ、動かす力となり、ついには前代未聞の世紀の裁判を勝利に導く。
人は人によって触発され変化する。
この2人は本当に最強のコンビなのだ。


映画のどのシーンが印象に残ったのか、こうして思い出してみるとさまざまあるのだけれど、私はマリアの結婚式でたくさんの人々が祝い、踊るシーンを思い出す。
満面の笑みで踊る花嫁花婿、その親族や客たち。
彼女たちは一部の者を除いて「今」が、迫害と喪失の時代の前夜であることに気づいていない。
そのことを知っている私たちは生命の輝きがほとばしるように踊る人々の姿を見て涙せずにはいられない。
だけど「今」がどんな時なのか、どんな時代の前夜なのか、何も知らないのは私たちも同じなのかもしれない。


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