「アルファベット・ハウス」 ユッシ・エーズラ・オールスン 著

「友情とは相互性にもとづく同盟だ」。逃亡した者も、残された者も、28年間、友情を試されていたのだ。


「特捜部Q」シリーズ作者のデビュー作。
第二次大戦中、イギリス空軍のパイロット2人が敵国ドイツに不時着。
降伏し捕虜になってもおそらく命の保証はないことから、彼らは生き残りを賭けてナチス将校たちが入院する精神病院で患者を装うことにする。
ところが2人が逃げ込んだ施設では患者に対して、飲めば一日中意識が朦朧としてしまう薬や脳に電気ショックを与えるという現在の常識では考え難い「治療」、いや人体実験が行われていた。
その上、その施設、通称「アルファベット・ハウス」には、彼らと同じ偽患者が3人いて、なぜか2人を虐待、あわよくば消してしまおうと図る。
彼らは生き残りをかけて、この偽患者たちと対決することになるのだが…。


確かに施設で生き延びるという彼らの判断は最善のものだったかのように思えたのだが、しかしその施設での毎日はまさに毎日続く静かな拷問という状況で、前半はほとんど鬱々とした感想しか出てこない。
ドイツ人側の偽患者というのがまたひどいサディストたちで、もう捕虜になってた方が良かったんじゃないの?と言いたくなってしまう。
後半、28年後に追いつめられた2人が逆襲する流れでいくらか溜飲を下げることができるものの、本当に虚しい、というのが一番の思いだ。


著者は父親が精神科医だったことから、幼い頃、1950年代から1960年代にかけて、自分が目にしている患者に対して「彼ははたして病気なのか、健康なのか?」という疑問を常に持ち続けていたという。
現代でも詐病というのはわりに耳にすることがあるのだが、入院して毎日診察などを受けながら病気を装うというのはさすがに難しいことだろう。
主人公たちは敵国人であるという事実も隠しているわけだから二重に嘘をついているわけで(1人はドイツ語も解さない。それゆえまた混乱が…。)、それを隠しつついささか乱暴な「治療」を受けて…とするうちに実際に2人共に精神的におかしくなってくるという成り行きも頷ける。
囚われの境遇、長年続く虐待、崩壊していく自我…と来ると「特捜部Q」の「檻の中の女」や「キジ殺し」「カルテ番号64」を思い出すが、この辺りは著者が得意の分野なのかもしれない。


著者はあとがきで

「これは戦争小説ではない。
『アルファベット・ハウス』は人間関係の亀裂についての物語である。」

と述べている。


本書を読んでいて、サン=テグジュペリの「人間の土地」のあるエピソードを思い出した。
飛行機を操縦していたサン=テグジュペリは、ある時同僚とサハラ砂漠に不時着してしまう。
水も持たないまま砂漠を彷徨うという絶望的な状況の中で、彼は故郷で彼らの帰還を待つ人々を思い、こう言う。

そうだ、そうなのだ、耐えがたいのはじつはこれだ。待っていてくれる、あの数々の目が見えるたび、ぼくは火傷のような痛さを感じる。すぐさま起き上がってまっしぐらに前方へ走り出したい衝動に駆られる。彼方で人々が助けてくれと叫んでいるのだ、人々が難破しかけているのだ!

遭難した自分ではなく、待っていてくれる人々の方が難破しかけている、助けなければならないのは彼らだ!という「役割の転倒」。
絶体絶命の危機に、互いが互いの最速最強の救援隊となることができるか、それが2人に課された試練だった。
そして、その試練は、戦時下と敗戦後の計28年間にも及んだのである。


追い詰められた人間がどこまで自分の意志と自分の拠り所(本書では友情、信頼?)を保持し続けることができるのか。
互いに相手を思いやりながら、過酷な環境に引き裂かれる主人公たち。
なぜ、と思いながら改めて子どもの頃の2人の絆を描くエピソードを見ていたら、物事に対する2人の性格の違いがなんとなく読み取れる。
これが2人の命運を分けたのかなあ、それでも、平和な時代であればそれが決定的なものではなかったはずなのに。
それでも、国と時代を超えた彼らの絆と、ラストの「友情とは相互性にもとづく同盟だ」というシンプルな言葉が胸をつく。


アルファベット・ハウス (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アルファベット・ハウス (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)