「独りでいるより優しくて」 イーユン・リー 著

毒物混入事件をきっかけに深い孤独の中に引きこもってしまった3人の男女。被害者の死をきっかけに、彼らは独りでいることをやめて誰かと生きることを模索し始める。


これは1989年、まだ天安門事件の影響が残る北京に住んでいた4人の男女の物語。
裕福な家庭で育った優秀な男子生徒の泊陽(ポーヤン)、その幼馴染で心優しい女生徒の黙然(モーラン)、彼らより少し年上の女子大生である小艾(シャオアイ)、そしてこの年、泊陽らと同じ学校に入学するため小艾宅に預けられた物静かな孤児如玉(ルーユイ)。
孤高を守り好意を拒否する如玉の出現によって不安定になった空気、危なっかしく均衡を保っていた彼らは、毒物混入事件をきっかけに、1人が障がいの残る身体となり、残る3人も沈黙の檻に閉じこもることになってしまう。


誰が、なんのために被害者に毒物を飲ませたのか?
そして他の2人はそのことを知っていたのか?
そしてなぜ彼らは全員、口を閉ざし、何年間も孤独の中に閉じ込もってしまったのか?
本書はまるでミステリーのように、過去と現在を行き来しながら彼らの心の動きを丁寧に綴っていく。
事件後、互いに深く語り合うこともなく、彼らは頑なに独りであることを守り、1人は被害者とともに北京に残り、2人は別々にアメリカに渡る。
しかしどこにいても3人は、誰とも心から分かり合うことが出来ず結婚生活も破綻してしまっている。


なぜそれほど彼らは孤独にしがみついているのか。
これは、彼らが育った中国という国の国民に対する政治的な圧力ーー特に天安門事件の後とあってはーーに関係するのかもしれない。
あとがきにもあったが、幼い頃に文化大革命を、思春期に天安門事件を体験した著者は身をもって嘘と欺瞞と密告、裏切りを体験してきたという。
その時に感じた恐怖と幻滅が、被害者も含めて、こんなにも孤独を拠り所にする頑なな登場人物を生み出したのかもしれない。


人と共感し合い、わかり合うということは、相手から何かを受け取る代わりに自分の中の何かも差し出すということだ。
だから人と親しくなるということには少し勇気が必要だ。
だけど、3人は自分の中の何も差し出そうとはしない。
人を信用していないから。
加害者にとっては、人を信用しないことは自衛の手段でもあった。
だから、それを無理矢理こじ開けようとした被害者は、思わぬ反撃を受けることになったのだ。


渡米した登場人物のうちの1人が、自分を取り巻くアメリカ人たちの姿を、時に苛立ちまじりに、時に羨みながら眺めている様子は、他人と何も分かち得ずに生きてきた人間の傲慢さと哀しさの表れのように思える。
人と何も分け合わなければ、傷つきはしないけれど、悲しい思い出もやるせない思いも決して慰め合えない。
アメリカ人のナイーブさに苛立つくらいだから、彼らにとってはおそらく、日本人のナイーブさは理解不能かもしれない。
しかし、いずれにしても人は生まれる国を選ぶことは出来ないのだ。


そんな彼らが、長い年月の後、被害者が死亡したことをきっかけに、凍りついた時計を動かし始める。
まるで何かから解き放たれたかのように、やっと孤独を手離そうと試みるのだ。
おずおずと、そして切実に。
それは、ちょっと歪んだ形ではあるけれど、長い年月を経て頑なだった彼らが、人に自分の中の何かを差し出す決意をしたということ。
物語はそこで終わり、そして彼ら3人がまだ経験したことのない人生がこれから続くのだ。
独りではない人生が。



独りでいるより優しくて

独りでいるより優しくて