「九尾の猫」 エラリー・クイーン 著

大都市ニューヨークを恐怖に陥れた「猫」による連続殺人事件。中期の名作であり、探偵エラリーの苦悩と再生を描くターニングポイントとなる作品。


最初にエラリー・クイーンの探偵小説を読んだのは小学生の頃だっただろうか。
図書館にあった子ども向けの国名シリーズの「シャム双生児の秘密」だったと思う。
いやーハラハラドキドキ、怖かったー。
それから夢中でさらなるエラリー・クイーンものに手を出し、読むものがなくなれば直接版元に電話をして、なんだか私でさえどうかと思う翻訳の絶版本を取り寄せたりした。
提示される謎とエラリーが開示する解、それが面白ければそれで良かったのに、いつしか謎と解だけでは満足しなくなったのは私が中学校を卒業する頃だった。


そんな時、エラリーのいわゆるライツヴィルもの中期の3作品「災厄の町」「フォックス家の殺人」「十日間の不思議」を読んで驚いた。
ああ、人間がいる。
被害者も加害者も私たちと同じように希望を持ち、時に裏切られ、恋をして、時に恋に破れて傷ついて、それでも生きていく人間だった。
謎と解の中にたまたま人間がいるのではなく、人間の中に謎と解があった。
そしてエラリー・クイーンもまた苦悩する人間だということを発見したのもその頃だった。


本書はそのライツヴィルもの3作品の後に発表された。
猛暑のニューヨークで、「猫」と称される連続殺人犯が次々に一般市民を殺害していく。
被害者や殺害時期には一見、規則性も共通性もなく、男性の死体にはブルーの紐が、女性にはピンクの紐が首に巻かれている、それが「猫」の残す唯一のサインだった。
市長をはじめ上層部の責任逃れのために捜査に駆り出されたエラリーは、彼らの思惑通りに父親クイーン警視ともどもマスコミの矢面に立たされ非難を浴びる。
そして、うだるような熱気と誰が次に狙われるかわからないという恐怖がニューヨーク市民を追いつめ、ついには大規模な暴動が起こる。
しかし、暴動によって大勢の被害者が出たその後も続く猫の凶行。
彼は真犯人を見つけ出し、混乱したニューヨークの街に平穏な日々を取り戻すことができるのか。
そしてついに訪れる「猫」の逮捕…。


「十日間の不思議」の後、事件を解決できなかった自責の念から殺人事件の捜査に関わることを拒否していたエラリー。
父親絡みのいきさつで「猫」捜索に関わらざるをえなくなった彼は、すでに5件、そしてさらに続く凶行に苦悩しつつも、やがて以前のような犯人の追跡とその駆け引きにのめり込み、時には喜びを感じている自分に気づく。
このあたりにエラリーがエラリーであることの本質が現れている。
相手は人殺しであり通常の人間が想像もつかない境地にいるサイコパスである。
しかし、エラリーはそんな犯人を追う立場にありながら、その人殺しと同じ境地に立ち、彼らの声を聞き、彼らの欲望を正しく理解できる者でもあるのだ。
だからこそ、エラリーは彼らの行為を止めなければならない、おそらくは彼らと同じ側に堕ちないために。


本書のラストはなかなか衝撃的で、事件の真相にショックを受けたエラリーは自暴自棄になる。
しかし、彼は高名な精神分析セリグマン教授によって「このようにしか生きられない」人間であることを許され、それを受容することを学ぶ。
そしてひとたびそれを受容したならば、彼はこれからも、従容として与えられた天職を遂行しなければならないと諭される。

君の選んだ仕事は昇華行為であり、大きな社会的価値を持つ。
つづけなくてはならない。
もう一つ言いたいのは、それが社会のためだけでなく、きみ自身にとっても不可欠な仕事だということだ。

そして彼は探偵であり続ける。
セリグマン教授に与えられた「ある教訓」を胸に抱きながら。


久しぶりに読み返してみると、本書では、謎解きの面白さやエラリーの苦悩と再生以上に、今まさに成長し続ける伸びやかなニューヨークの街と人々が若々しく、生き生きと描写されていることに驚いた。
またニューヨークの大暴動のあと、プロメテウスの像がエラリーに語りかける文明論は、以前は読み飛ばしていたのに、今になってとても胸にしみる。
再読に耐える名作だと改めてファンになった。


九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)