「孤児列車」 クリスティナ・ベイカー・クライン 著

生まれ育った故郷や家族との繋がりを断たれ、あかの他人の中で暮らす。ある者は家族として、ある者は都合の良い労働力として、ある者は使い捨ての道具として。今いる場所が果たして本当に自分の居場所なのかと疑問を抱き、本来あるべき自分にいつまでも未練を感じながら。


以前、 イギリスからオーストラリアに送られた”児童移民”について描かれたノンフィクション「からのゆりかご」について書評を書いた。
本書とはノンフィクションとフィクションという違いがあるが、しかしいずれも国の政策や大人の都合であちらからこちらへと「移動」させられる子どもたちの物語だ。
生まれ育った故郷や家族との繋がりを断たれ、あかの他人の中で暮らす。
ある者は家族として、ある者は都合の良い労働力として、ある者は使い捨ての道具として。
自分が本来生きるはずだった家を思いながら、今いる場所が果たして本当に自分の居場所なのかと疑問を抱き、あるべき自分にいつまでも未練を感じながら。


本書の主人公はインディアンの血をひく少女モリーと、かつて孤児列車に乗って大陸を移動した孤児の少女ニーヴ、今ではヴィヴィアンという名の91歳の女性だ。
モリーは父親が事故で死亡し母親が刑務所に入って以来、孤児として里親の元を転々としながら寄る辺ない暮らしを送っている。
現在の里親夫婦は、夫ラルフはともかく、妻ディナはゴシック・ファッションを身にまとう一風変わったモリーが気に入らず何かと当たり散らす。
おまけにモリーが図書館の本「ジェーン・エア」を盗んだことが発覚し、彼女は少年院に入るか、社会奉仕活動を50時間行うかのどちらを選ばなくてはいけなくなる。
やけになったモリーに唯一人、彼女を信じる友人ジャックが一つの提案を持ってくる。
母親のテリーがメイドをしている91歳の女性が屋根裏の荷物を片付ける手伝いを欲しがっているというのだ。
そしてモリーは50時間の約束で、ヴィヴィアンの荷物を片付ける手伝いをすることになる。
互いに簡単な作業に思えた荷物の片付けだったが、箱を開けるごとに、80年前からヴィヴィアンにつきまとう幽霊たちの記憶が次々に蘇ってくる…。


この「孤児列車」は、1854年〜1929年にアメリカの東海岸の都会の町から中西部の農村部に子どもたちが送り込まれた慈善事業を題材にしている。
実際に送り込まれた子どもたちは20万人以上で、彼らは容姿や性別で選別され、時には兄弟姉妹が引き裂かれ、過酷な労働を強いられ、肉体的・精神的虐待を受けたケースも多々あったという。


本書は、2011年のモリーのパートと1929年から1943年までのヴィヴィアン(ニーヴ)のパートが交互に進行するように構成されている。
年齢も人種も境遇も全く異なる2人だが、どちらも大人の勝手なやり方で「家族と故郷を失った子ども」であるという共通点がある。
また、ともに引っ込み思案で思慮深い2人は、他人の家を転々とする中で心に負った深い傷を誰にも訴えようとせず、自分の心の中にしまいこんで生きている。
けれど、その傷は確実に彼女たちの心を蝕み、鎧のように頑なになって彼女を信じ愛そうとする人々を遠ざけてしてしまう。
このあたりは本当にもどかしく、哀しい。


そんな2人が時を超えて出会い、胸にしまってきたつらい過去を語り合うことで、初めて現在の自分を肯定的に認められるようになる。
それは感動的な「生きなおし」、再生の姿だ。

物心ついてからはじめて、自分の人生が理にかなったものになりはじめている。今の今まで、この人生は、行き当たりばったりでつじつまの合わない、不幸なできごとの連続だと感じていたが、今はそれが必要なステップだったと思える。


私は本当は子どもが題材になっている本や映画が苦手だ。
さっきも娘と映画「レオン」の話をしている流れで「グロリア」の説明をしていたら泣いてしまい馬鹿にされてしまった。
著者があとがきで「再生」という言葉を使っていたが、本当はなぜ同じようにこの世に生まれてきた子どもの中の何人かだけが、再度生まれ変わる苦しさを経験しなければいけないのかと腹が立って仕方がない。
だけど、再生すら果たせずにいる子どもたちもまた世界中には存在していて、私たちの国にも助けて欲しいと声を上げているのに無視されている子どもたちがいる。
そして貧困や紛争や離別によって、今もそんな子どもたちは増え続けているのだ。
本書を読んで、改めて思う。
私たち大人はもっと賢く、もっと強く、もっと優しくならなければ。

孤児列車

孤児列車