「迷宮」  中村 文則 著

未解決の一家惨殺事件の唯一の生き残りである女性と彼女に魅入られる主人公。迷宮のような心と、重い秘密を抱えて生きる二人。


幼い頃、自らの背徳的で陰鬱な部分を仮託した「R」という分身を心に抱えていた主人公。

しかしあるとき彼はその「R」を切り捨て、ほかのおおぜいの人々が暮らす平凡な現実世界で「そこそこ明るく」なって、「そこそこ楽しく」生きていくことにする。

そんなある日、彼は一人の女性と出会った。

彼女は、未解決の一家惨殺事件の唯一の生き残り。

家族3人が惨殺される中、当時小学生だった彼女は睡眠薬で昏睡状態だったという。

次第に事件と彼女に魅入られ、どっぷり溺れてしまう主人公は、切り離したはずの「R」をよみがえらせ、捨てたはずの背徳と陰鬱を取り戻し始める。

そして棲みなれたそこそこ楽しいはずの現実世界から、どんどん彼女との死をめぐる駆け引きに惹きつけられていく…。



本書は著者の11冊目の小説。

この物語の原動力は、密室で起こった一家三人が殺害された事件の謎と、その事件でただ一人生き残った少女の抱える「秘密」だ。

それを探るために、読者もまるでミステリーを読んでいるような気持ちで、主人公と一緒に迷宮をさまよってしまう。

それぞれの人が、自分だけの物語を持ち、「秘密」を抱えて生きている。

そして耐え難いほどの重い「秘密」を抱える人と一緒に生きていくということはどういうことなのか。

著者は主人公を試し、私たち読者を試す。



以前、同じ作者の「掏摸」についても感じたのだが、本作でも主人公は人生の分岐点で、正しい方、明るい方の道ではなく、あえて間違っている方、暗い方の道を選択する人物のように思える。

まるで平凡に生きている人々を否定するかのように、作者は主人公に険しい道を選択させる。

いや、そういう道を選択する人物をあえて主人公に設定していると言った方が正確かもしれない。



だから主人公は他人が差し伸べた手をなかなか取らないし、現実とも折り合おうとはしない。

ところが不思議なことに、主人公が「救い」を求めることを諦め、あるいは拒否して、あえて険しい道を選んでどん底に堕ちなんとする時、不思議な逆転が起こる。

それは一番暗い場所にいるはずの彼こそが、「救い」に一番近い場所にいるという発見 。

その明暗が逆転するドラマチックな瞬間が作者の作品を読んだときの喜びの一つなんだと思っている。

その重苦しい描写から、いずれも「しんどい作品」ではあるのだけれど。



非常に暗いテーマと追い詰められた人間の異常性を描きながら、著者の作品はいつも最後に独特の希望を提示する。

一人一人の人間の分かり合えない絶望を徹底的に描きながら、それでも、そんな人間どうしが身を寄せて生きることの意味を確かめようとしているように。

だから、手を差し伸べることをやめないで、と言うように。



迷宮 (新潮文庫)

迷宮 (新潮文庫)