「おだまり、ローズ」 ロジーナ・ハリソン 著

「ヨークシャー娘はちょっとやそっとのことで恐れ入ったりはしないのです。」

本書は18歳からお屋敷奉公にでて、1928年から35年間、子爵夫人付きのメイドとして、女傑とも言うべきレディ・アスターとその家族に仕えたローズことロジーナ・ハリソンの回顧録である。
使用人の思い出話なんて、と侮ることなかれ。
本書では、イギリスにおける女性初の国会議員として活躍したレディ・アスターの華麗なる交友関係や貴族たちの生活、そしてその暮らしを支える使用人たちのプロ意識に満ちた見事な仕事ぶりをつぶさに見ることができる。
まさに「ダウントン・アビー」の世界だ。


謙遜しつつも決して卑屈にならないローズの姿勢とメリハリの効いた小気味のいい文章は、本書をただの「おばあちゃんの思い出話」または「家政婦は見た」にはしない。
その背後には、彼女の「ヨークシャー娘」としての気概と、ある処世訓があるようだ。

わが家の人間に関しては、そんな心配はまずありませんでした。分をわきまえていたからです。これは卑屈にふるまっていたという意味ではありません。分をわきまえるのは、いわば当時の処世訓で、わたしたちはそれを律義に守っていただけのこと。

決して身分社会、格差社会を肯定するつもりはないのだけれど、本書を読むと「分をわきまえる」は、処世術として、ひとりの人間が幸せに生きていく秘訣として、有効な理念なのではないかとも思えてくる。


さて、ローズが本書で最も筆を割いているのは、副題にもある子爵夫人、レディ・アスターのこと。
どのような女性なのか…ローズの言葉によると。


どんなときでも奥様はつねにその場を支配してしまい、そのため”レディ・アスターを満足させれば、みんなが幸せ”が全員の共通認識になっていたようです。もう少しでレディ・アスターを”喜ばせれば”と書きそうになりましたが、奥様を喜ばせるのは不可能ことにでした。誰が何をしてさしあげようと、喜んだそぶりは決してお見せにならなかったからです。わたしたちが奥様に奉仕するのは当然の義務だとでもいうように。


このような奥様であるから、彼女のお付きの侍女はなかなか居つかず、ローズも最初は精神的にかなり追い詰められる。
その末に、神にすがってある境地に至った彼女がレディ・アスターと対決するシーンは、本書のみどころの一つである。
開き直った者の強さ、強い我を持つ者同士が互いを好敵手と認め合うまでの、ぎりぎりの駆け引き。
それは得難きライバル、人生の伴走者を得るための、最初の試練だ。
そして以来、

「おだまり、ローズ」
で締めくくられる2人の丁々発止のやり取りは、レディ・アスターが亡くなるまで続くのである。


また、本書は「クリヴデン・セット」や「プロヒューモ事件」などの政治スキャンダル、戦争と爆撃の続く中での市民の生活などに対する歴史的興味にも応えうる貴重な資料でもある。
個人的に、世間ではレディ・アスターの宿敵とみなされていたチャーチルについてのローズの言及はなかなか興味深く、アラビアのローレンスの葬儀でともに涙を流したエピソードは意外な印象だった。
ローズがその洞察力を発揮して言うように、私も2人は実はとても似ているところがあったのかも知れないと感じた。


望むと望まないとにかかわらず、私たちは生まれながらに神という舞台監督にそれぞれの「役」を与えられ、渡世する。
山田風太郎さんは「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」と書いていたが、どの国や地域に生まれたか、どの性に生まれたか、どの親の子に生まれたかなどさまざまな要因が人の運命を大きく左右するのを見ると、神が公平や平等を考慮して人に配役をしているとはとても思えない。


しかし、一見恵まれているはずのレディ・アスターも、子どものことや夫のことで苦しみ、世間の厳しい目やマスコミの批判に常に晒されていた。
ローズは決してそうは書かないが、本書の行間から立ち上がってくるのは、自分の思いのままに生きているはずのレディ・アスターの孤独(自業自得でもあるが)、身近な人から理解してもらえないことへの憤りなどである。
それは使用人であるとか、貴族であるとか、そのような「役」とは無関係の、生きている者すべてが背負う宿命であり、ある意味で平等であることのしるしなのかもしれない。


だけど、不平等に生まれた人間が、いま居る場所で自分の才能や本分を存分に発揮したのなら、それは十全に生きていると言えるのではないだろうか。
「分をわきまえる」という言葉がそういう意味なら、ローズはまさにそれを実現したといえるだろう。
だって、「この世で一番の望みは?」と問われたローズはこう答えるのだから。

「もう一度、同じ人生を生きることです」

おだまり、ローズ: 子爵夫人付きメイドの回想

おだまり、ローズ: 子爵夫人付きメイドの回想