「本を愛しすぎた男 本泥棒と古書店探偵と愛書狂」 アリソン・フーヴァー・バートレット 著

本に勝手な物語や感傷を押し付けて執着する人間の身勝手さ。本は読まれてナンボだと思うのだけど。

以前ある郷土史家の自宅にお邪魔する機会があり、庭にかわいいお地蔵さんがいるのを見つけた。
路傍にいるよりもずっと綺麗な姿で、手入れの良い庭にまるで装飾品のように置かれて。
「このお地蔵さんはずっと前からここにあったんですか?」
と、尋ねると彼はちょっと自慢気にこう言った。
「いや、◯◯の田舎道にあったんで、持ってきたんですよ。ここの方がお地蔵さんも幸せでしょ」
一瞬頭が真っ白になって、次の瞬間、「それってど◯ぼ◯ですよね?!」と叫びそうになったが、急を察知した連れにど突かれて我に返った。


20数年経った今も、その時のことを思い出すと大きな大きな違和感に包まれる。
この世には自分のものとそうでないものの区別がつかない人が、そしてどんな逸脱行為をも正当化できる人が確かにいるのだ。


本書はまさにそのような人間の話である。
著者は友人から預かったある稀覯本の出処を探す中で、「本を愛しすぎて盗んだ者」ジョン・キルギーという男のことを知る。
彼は稀少な古書を数百冊、独特なやり方で盗み続け、それを自らのコレクションとした。
そして著者は、ジョン・キルギーのことを調査する過程で、本の守護神ともいうべき一人の男のことを知る。


彼の名はケン・サンダース。
ソルトレイクシティ古書店を経営するサンダースは、各店舗から盗難情報を集約、そして盗難品や犯人の注意報を各店舗に連絡するという古書店間の情報共有システムを構築。
結果的に書店から集めた情報をもとに警察と協力し、キルギーを刑務所に送り込むために一役買うことになる。


キルギーとサンダース。
それぞれが古書に対して愛情を持ちながらそのスタンスが異なる原因は、「本」が何を象徴しているかという点だ。
キルギーにとっては恵まれない環境と抜け出せない現状から逃避するためのステイタスシンボル
サンダースにとっては離婚後、引き取った子供たちを養うための活計であり、自身の正義感を発動させる契機となるもの。
ただ、本への愛情は共通していると著者は言うけれど、「読む」という行為を置き去りにして、蒐集するという行為にハマる彼らの愛情は、あくまでも「読む」ことを本の本来の役割と考える私には理解し難かった。


著者のインタビューに悔悛の言葉もなく冷静に回答するキルギー。
彼は独特の理屈でこの世を生きており、サンダースや古書店主たち怒りがまったく理解できていない。
盗難が彼らの生活基盤を破壊することも、本への愛情を冒涜することも、想像すらできない。
私たちの社会は法律や決まりというルールを守ることを前提に構築されており、このような逸脱者に対して出来るのは一時的に俗世間から隔離しておくことぐらいだ。
そして窃盗犯の懲役刑は驚くほどに軽い。


そして本書で改めて考えたのは、キルギーの詐欺行為が成功した理由、クレジットカードというものの持つ構造的な欠陥だ。
不正使用に対しては保険が適用されると思っている人も多いと思うが、意外に適用外となるケースは多く、むしろ本人の注意義務違反や家族間での不正使用などで思わぬ負債に繋がることも多々ある。
本人確認方法の不備、信用機関への照会方法の不備、加盟店店員の知識不足、消費者の油断…。
人間の悪意が根絶するとは思えないので、システムの不備は修正し続けるしかないが、キルギーのような人間にとってはどんな防犯システムも自分の目的を達成するために打ち破るべきハードル(さほど高くない)でしかないのだ。


本書で扱われる「本」は、仏像などの美術品に近い。
それらはさまざまな歴史を背負っており、略奪も盗難もまたその歴史を彩る伝説の一つとなる。
ナポレオンもエジプトからロゼッタストーンなどの宝物を持ち去った時、私が会った郷土史家と同じセリフを吐いたのかもしれない。
しかし、流転する美しきものたちは、まるで無理やり略奪された姫君のようで、その無体さに哀れみを感じずにはいられない。
美術品も古書にも心はなく、寂しさやつらさを訴えることはないとは知っていても。
すべては心のないモノに物語や感情を押し付ける人間の勝手な感傷だと分かっていても。


でも、あのお地蔵さんにもし心があったら、どう思っていただろうと想像してしまう。
住み慣れた場所から見知らぬ土地に自分を運んだ男を、どんな風に見ていたんだろうか。
ただ、そう考えると、その男に何も言えなかった女もまた見られていたことに思い至り、いてもたってもいられなくなる。

本を愛しすぎた男: 本泥棒と古書店探偵と愛書狂

本を愛しすぎた男: 本泥棒と古書店探偵と愛書狂