「その女アレックス」 ピエール・ルメートル 著


アレックス…アレックス。本を閉じてしばらくは彼女のことしか頭に浮かばない。あー…アレックス。


本書を読了した今、頭の中では、堰止めた川の水のように、溢れ出しそうなほどの言葉の渦があるのだけれど、残念ながらここで語るわけにはいかない。

この作品を読み終えた人々は、プロットについて語る際に他の作品以上に慎重になる。それはネタバレを恐れてというよりも、自分が何かこれまでとは違う読書体験をしたと感じ、その体験の機会を他の読者から奪ってはならないと思うからのようだ。

訳者あとがきで、まさに、という理由が述べてある。
これから本書を手にする読者に思いやりと、そして軽い嫉妬を感じる。
まだ本書を読んでいない人すべてに。


さて、かと言ってなにも書かずにここで「終わり」にするわけにはいかない。
本書は2011年にフランスで発売され、2012年にはフランスでリーヴル・ド・ボッシュ読者大賞(ミステリ部門)を、2013年にはイギリスで英国推理作家協会のCWA賞インターナショナル・ダガーを受賞している。
著者ピエール・ルメートルは日本ではすでに2作発売されているが、本書で活躍するパリ警視庁カミーユ・ヴェルーヴェン警部ものは本書が初登場となる。


人を魅了するミステリには、魅力的な捜査官たちが揃っている。
まずは主人公であるカミーユ
彼の身長は145cm、原因は妊娠中でもタバコを吸い続けたニコチン中毒の母親のせいで、そして著名な画家でもあった彼女は芸術的センスも彼に授けた。
そして本書では、カミーユと対照的な巨漢で親友かつ上司でもあるル・グエン部長、富裕層に属し知識人でもありながら刑事を務めるカミーユの部下ルイと、人並外れた吝嗇家アルマン、そしていけすかないくせに妙なユーモア感覚を見せる予審判事ヴィダールが活躍する。


彼らの言動が本書の楽しみの一つなのだが、特にルイの全身を包むブランドものの着道楽と女性相手のモテモテぶり、そしてあらゆる場面で発揮されるアルマンの涙ぐましい倹約(ケチ)ぶりにはため息と笑いがこみ上げる。
実は本書の事件を受ける4年前にカミーユは壮絶な体験をしており、その痛手は未だ癒されていない。
そんなカミーユの痛みを感じ取りつつ、ともに働く刑事たちの声に出さない、だけど端々にあらわれる優しさが心のデリケートな部分を刺激する。


人を魅了するミステリには謎めいた女性がいる。
本書にも、魅力的で、謎めいて、そして勇敢な女性、アレックスがいる。
けれど、彼女の行動には、読者もまるで目隠しをされてトゲだらけの薔薇の迷路に置き去りにされたかのような憤りさえ覚えるかもしれない。
なんでこんな痛い思いをさせるの?
けれど最後の最後に目隠しを外した時、見えるのはまったく予想外の景色だ。


本書は三部構成。
まず第一部ではアレックスが見知らぬ男性から誘拐監禁され、カミーユがこの事件を指揮するというサスペンス的展開で始まる。
通常であれば、このアレックスの誘拐監禁事件を解決することが本書の主要テーマと思うだろうが、実は本書はそんな単純な小説ではない。
いったん落ち着いたかに思えた事件、それが第二部に入った途端、物語はものすごいテンポで暴走を始めるのだ。
無軌道で残酷で容赦ないグロテスクな連続殺人事件(お食事をしながら本書を読む方は注意しましょう)。
やがて第二部が謎めいた幕引きを迎えた直後、第三部において読者は驚きとともに事件の真相を知ることになる。
そして、私と同じように胸につかえた思いを吐き出すように呟くと思う。
「アレックス…」と。


人を魅了するミステリには、読了後しばらく経っても、読んだ者の心にふと思い出しては切なく、嬉しく、ワクワクさせる力がある。
こんなすごい本を読めたということ、登場人物たちをこんなに好きになれたということ、本当に幸せな読書体験だった。
願わくば、このワクワクをたくさんの人が味わえますように。


その女アレックス (文春文庫)

その女アレックス (文春文庫)