「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 増田 俊也 著

私たちはもっと「負け」ることの意味を、負けたあとの長い人生の生き方を何処かで学ぶ必要があるのではないかと思う。

息子が中高生の頃、毎週のように試合や遠方の学校で行われる練習試合などに連れて行った。
朝は5時頃から起きて道具を詰め込み遠路を往復し夜遅くに帰る。
子どもらはみんな一生懸命で、彼らに付き添うことは苦労ではないのだが、その時に一番つらかったのは、息子の勝負を見守らねばならないことだった。
個人戦の勝敗はともかく、チームの勝敗に関わる場面で息子が登場したりすると文字通り胃がズンと重くなった。


そんなある時、考えた。
一回戦が終わり、ふと見回すと、試合会場の半分は「負け」ている。
そして、二回戦、三回戦と進むにつれ、その割合は増え、やがて会場のほとんどは「負け」の側の人間となる。
当然みんな必死に負けまいと努力してここに来ている、だけど大部分は負けてしまうのだ。


そう、実は世界は「負け」で満ちている。
それなのに、人は強烈に負けることを厭う。
だけど、負けると人のなにが損なわれるのだろう?
そして、人はどうやって負けたことを自分に納得させてその後の人生を生きていくのだろう?
おそらくそれは、人が生きていく上で大切な心の在り方の問題だと思うのだけれど、いったいそれはどこで教えてくれるのだろう?


本書は「勝つ」ということにあくまでもこだわり続けた木村政彦氏の、そして勝つことにこだわり続けた周りの人々の物語だ。


「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」
全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝、戦前戦中戦後に渡り15年間不敗のまま引退。
実際に彼と戦った人、彼の試合を見た人々から「鬼」「史上最強」と称される柔道家
本書の前半では、彼と師匠牛島辰熊との師弟関係、現代では信じられないような猛稽古と勝利の栄光が描かれる。
後半では、戦後の柔道や武道全般の政治的な事情による方針転換と、強固だった師弟関係の崩壊、日本国内を追われるようにして活動した海外での活躍…。
そして、参加するにはあまりに安易すぎたプロレスという世界での屈辱的な力道山戦の敗戦とその後の彼の彷徨が描かれる。
著者の熱気がそのまま本書から立ち上てくるようなアツい本で、久しぶりに何度も降車駅を乗り越ししてしまいそうになるほどのめり込んで読んでしまった。


とにかく全編を通じてあふれてくるのは柔道家をはじめとする格闘家たちの「勝つ」ことへの執念、そして「強さ」への強烈な執着。
師弟が行った修業は凄まじく、どのエピソードもとても人間業とは思えないような内容だった。
ただ私が引っかかったのは、彼らが追い求めたのは「強くなること」ではなく、「強いと人に認められること」ではないかということ。
ただ強い者になることだけが目的なら、誰にも知られずとも己がそれを知っていればいいはず。
だけど、それを万人に認められたいと願う、そして万人の前で無残な姿を晒したことで生涯悔いを抱えて生きなければならないという、その不幸。
そもそも、格闘技というのは自分を強さをはかるために、戦う相手、他者を必要とするのだから致し方ないのかも知れないが。


本書では、格闘家たちが強さを追求する純粋さに感動する一方で、武道・スポーツ(この違いは曖昧で深い)の世界が政治的であるということに空恐ろしさを覚えた。
GHQとの抗争下で、いかに巧妙に立ち回る者たちが生き残ってきたか。
矛盾するかも知れないが、力を欲する気持ちというのは容易に権力(パワー)に惹きつけられるのだろう(だって国会議員に占めるスポーツ選手の割合ときたら!)。
その親和性の高さや危うさを、力を持つ者は自覚しておかなければならないと思う。


以前、「アラバマ物語」を著したハーパー・リーの生涯について書かれた本を読んだ時に考えた(「『アラバマ物語』を紡いだ作家」)。
名作と呼ばれる本を著しながら、その後は作品を発表しなかったハーパー・リー
なぜ書かなかったのか、彼女の真意は明らかではないが、大切なのは、自分の夢や大望と実人生の折り合いをどうつけるか、ということなのだと思う。
それは人が一生かけて行わなければならないとてもしんどい作業だ。
誰しも自分が抱える理想に満ちた自己イメージを手放すのはとてもつらいことだから。


木村政彦、そして彼の師匠牛島辰熊力道山
彼らを支えた妻たちは、夫らが勝負に負け、非業の死を遂げ、失望のうちに死を迎えたその後も、彼らを愛することをやめなかった。
私は彼女らの心の持ちようを、男たちは学んでも良かったのではないかと思う。
鬼とまで呼ばれた彼らには失礼かも知れないけれど。
武道の本義は、価値は、「勝つ」こと「強い」ことにあるのか。
私たちはもっと「負け」ることの意味を、負けたあとの長い人生の生き方を何処かで学ぶ必要があるのではないかと思う。