「ヴァイオリン職人の探求と推理」 ポール・アダム 著

本書はとびきりの謎解きであり、魅惑的な楽器ヴァイオリンのガイドブックであり、主人公の職人としての矜恃に魅せられる多様な魅力を持つ小説である。
ヴァイオリンと聞いて心ときめくのは竹宮惠子さんの「変奏曲」の影響だろうか。
(というわけで「変奏曲」、久々に読み返してしまった)
しかし、本書の主人公ジョヴァンニ(ジャンニ)・カスティリョーネは、金髪碧眼の美青年ではなく、63歳のヴァイオリン職人だ。
このジャンニ、インターネットはやらない(パソコンを持っていない)、仕事の合間に孫の子守りや庭木のお世話に精を出し、時折仲間と弦楽四重奏を演奏するのが楽しみという絵に描いたような好々爺…に見える。
ところが彼は、優れた職人であり、推理力あり、アクションあり、秘密ありの実は奥の深ーい素敵なおじさまなのである。


本書のあらすじを簡単に説明すると、このちょいワルおやじ…いやジャンニが、四重奏団の一員である幼馴染のトマソの殺害事件に巻き込まれ、同じく楽団の一員である刑事アントニオとともに、イタリア各地はもちろん、イギリスにまで飛んで犯人探しに奔走するという話。
なぜ素人のジャンニがこんな事件に巻き込まれたのかと言うと、トマソの殺害に名匠ストラディヴァリが手がけた幻のヴァイオリン、”メシアの姉妹”が関わっている可能性が浮上したため。
ジャンニは、「ヴァイオリン職人」はもちろん、「ディーラー」「コレクター」「ヴァイオリニスト」ら、そして業界の暗部に巣食う「贋作者」などなどに顔が利き、彼らが跳梁跋扈するヴァイオリン業界の内幕に詳しいことから、アントニオの手助けをかってでたのだ。


このように、本書はミステリでありながら、ヴァイオリンの作り方やパガニーニなど伝説のヴァイオリニストたちのトリビアやエピソード、そして「無伴奏ソナタ」などの有名楽曲の数々が散りばめられ、一読するだけでヴァイオリンの世界のあれこれをつまみ食いできる贅沢な一品となっている。
しかしながら一方で、本書はよくある”あなたの知らない世界ガイドブック”では終わっていない。
作品に深みとリアリティを与えているのは、幼い頃にはヴァイオリニストとして、そして長じて以降は一職人として、ヴァイオリンという楽器に長く関わってきたジャンニの独特のルールやその職人としての矜恃だ。
そこには、経験を重ねてきたことへのシンプルな肯定感があるのだ。


ストラディヴァリの仕事について書かれたこんな言葉がある。

ストラディヴァリはどこからともなく出てきたわけではなく、すっかりできあがった天才が真空から登場したのでもなかった。

…彼は十四歳の頃にニコロ・アマティの徒弟になり、九十三歳までヴァイオリンを作り続けた。ほぼ八十年に及ぶ修行だ。…

…週に六日働き、昼食には作業台の横でひと切れのパンとチーズを食べて、晩まで仕事をした。ヴァイオリン作りは彼の一生の仕事だっただけではない。人生そのものだったのだ。


一挺数億円のヴァイオリンを創り出した天才ストラディヴァリの職業人生は、実はとてもシンプルで、おそらくはジャンニもまたヴァイオリン職人という職業のシンプルさを愛していることが伝わる。


そう言えば、物語の核となる名器グァルネル・デル・ジェスはヴァイオリニスト五嶋みどりさんの愛器でもある。
以前、彼女のドキュメンタリーを観ていたら、5億円相当というその愛器を彼女はキャリーバッグに入れ自ら背中に担いでバスや電車で移動していた。
化粧気のない顔で淡々と演奏をこなし、洗濯は街中のコインランドリーで。
うろ覚えで誤りがあるかも知れないが、番組の中で彼女は「ツアーは好きですか」と聞かれ、こう答えていた。
「好き、嫌いは関係ありません。ツアーは日常生活です」
その答えのシンプルさはストラディヴァリとも共通していて、彼に「ヴァイオリン作りは好きですか」と聞いたら、おそらく同じ答えを返すのではないかと思う。
ちなみに、そのドキュメンタリーで五嶋みどりさんが弾いた曲こそは、本書でも印象的な場面で演奏されるバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」だった。


最近、「あと何年働けるのかなあ」と考えることがある。
なんだか一切合切投げ出して一から新しいことを始めてみたい気がすることもある。
ただ、学生の頃、楽器で毎日毎日同じ音階練習を繰り返したように、同じ場所で、同じことを繰り返すことにも価値があるのかも知れないとも思う。
おそらく同じ場所で毎日小さな積み木を重ねていたら、立派でも美しくもないかも知れないが、高い高い塔を作ることだけはできるかもしれない。
ある日、私は自分が積み上げたものを見上げ、その高さに気づき歓声をあげるのだ。
そして、もしかしたら、そんな自分を誇らしく思うかもしれない。
シンプルであることの強さを信じてもいい、そう感じさせる、そんな小説だった。


ヴァイオリン職人の探求と推理 (創元推理文庫)

ヴァイオリン職人の探求と推理 (創元推理文庫)