「バッキンガムの光芒」 ファージングⅢ ジョー・ウォルトン 著

ファージング三部作の最終巻。著者が書きたかったのは人間の愚かさではなく、個々の人間の思考と判断力と勇気への信頼だとわたしは思う。


「英雄たちの朝」、「暗殺のハムレット」、そして本書でファージング三部作をまとめてこちらで書いています。もしこれから前2作を読む方、未読の方はネタバレがありますのでご注意下さい。


ファージングシリーズは、第2次世界大戦におけるイギリスの電撃的講和という歴史改変によって「そうであったかも知れない世界」を描く三部作だ。


ナチスドイツと講和条約を結び、表面的には平穏な毎日を取り戻したイギリス。
しかしこの条約の締結を画策した政治家グループ「ファージング・セット」は、さらなる権力集中や反ユダヤ主義を画策、そのため国民たちはさまざまな形の抑圧を受けている。
このような状況を背景に、ファージング・セットのメンバーの1人がパーティーのさなかに殺されてしまうという事件が描かれたのが第一作目の「英雄たちの朝」。
次にシェークスピア劇を観劇中のヒトラーと英国首相を狙って起こった暗殺未遂事件を描くのが第二作目の「暗殺のハムレット」。
そして、ついに各地で立ち上がった民衆たちが圧政に抗議、反乱の火の手が上がり始めた動乱のイギリスを描くのが第三作目である本書だ。


一作目から三作目まで通して登場するのはピーター・カーマイケル。
当初は殺人事件を捜査する刑事として登場した彼だが、大きな陰謀と権力の前に、毎回ギリギリの選択を迫られる。
彼は、ある時は自分の愛する者の安全と生活の糧を失わないために自分の信条を曲げ、ある時は刑事としての義務に従い行動して結果的に最も救いたくなかった者を救い、同僚を失う。
カーマイケルが迫られた人生の選択を思うと、「HHhH」でも同じことを考えたが、彼と同様に「自分の生活基盤、身近な者の安全や幸せ」と「社会正義、見知らぬ他人の命」という二者択一を迫られたとしたら、私は果たして迷いなく後者を選ぶことが出来るだろうかと考えてしまう。
自信は全くない。


ファージング三部作では、毎回、カーマイケルともう一人女性が副主人公として登場する。
いずれも若く瑞々しい感性の持ち主たちで、彼女たちがカーマイケルとは異なる視点でファシスト国家となったイギリスのなんとも言えない息苦しさを間接的に表現している。
本書では、カーマイケルが後見人となっている18歳のエルヴィラが、暴動に巻き込まれ逮捕されたことをきっかけに、国家が行う専横や、平凡な人間が平気で友人や肉親を売るという人の弱さ、身勝手さに気づいていく。


当初は社交界デビューとオックスフォード大学進学というごくごく私的な目標と楽しみで頭がいっぱいのエルヴィラ。
だが彼女は、厳しい尋問によって恩人であるカーマイケルを密告することになってしまい、自分自身にもある人間の弱さを自覚することになる。
また、カーマイケルの私的な秘密や、彼がイギリス版ゲシュタポを指揮しつつ陰で支援してきたユダヤ人避難活動を知り、逆にそのユダヤ人たちによって匿われ彼らの優しさに触れる。
そして子どもの頃に父と自分を見捨てたと思い、恨んでいた母親との交流で、新たなものの見方を学ぶ。
このような経験を経て、エルヴィラの目は開かれ、世界は広がり、いつも誰かに何かをしてもらうばかりだった彼女は自分の頭で考え始める。
誰かのために自分は何をなすべきか、自分は何が出来るのか…。


「図書室の魔法」から同じ作家繋がりでこちらに移行したのだけれど、ちょうど並行して読んでいた本に共鳴するところが多く、しばらくはいろいろと考えさせられた。
その本は「ハンナ・アーレント」(中央公論新社刊 矢野久美子著)。
彼女の描く人間を分断する全体主義の仕組み、なによりも「考えること」の必要性と切実さ、考え抜いた思想を貫くことの孤独に、ファージング三部作の登場人物たちの立場と心情を重ね合わせて胸が苦しくなった。


ヒトラーと手を結び、ファシスト政治が定着したイギリスの状況は、アーレント全体主義について語った言葉を彷彿とさせる。
個々の人間の唯一無二性の破壊と、人間の無用化。
あまりにも大きな圧力の前に一作目のヒロインは抵抗と逃亡を選び、二作目のヒロインは翻弄された挙句自己を見失ってしまった。
そして、三作目のヒロインは追い詰められた末に、アーレントが指摘した何よりも必要な自分の頭で「考えること」に目覚め、一か八かの賭けに出るのだ。


あとがきによると、著者はこのシリーズを現実のイギリスの政治に対する強い怒りを契機に書き上げたのだという。
ところどころに見られるファージング・セットに対する鋭い侮蔑の表現を読むと、なるほどと思わされるし、似たような茶番が日本でも繰り広げられているのは日々目にしている。
ただし、著者が書きたかったのは人間の愚かさではなく、個々の人間の思考と判断力と勇気への信頼だとわたしは思う。
本書の謝辞でこう述べたように。


わたしは、希望を失ったことのない楽天家である。だからこそ、この三部作を書いた。


英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)

英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)

暗殺のハムレット (ファージング?) (創元推理文庫)

暗殺のハムレット (ファージング?) (創元推理文庫)

バッキンガムの光芒 (ファージング?) (創元推理文庫)

バッキンガムの光芒 (ファージング?) (創元推理文庫)