映画「チョコレートドーナツ」

人が生きて行く上で大切なことは、実はとてもシンプルなものなんだと思う。好きあった人と一緒に暮らすこと、毎日を笑顔の中で安心して過ごせること。マルコの望みは、大好きなチョコレートドーナツを朝食に、我が家でポールとルディと一緒に暮らすことだったのに。

原題は「Any day now」、いつか、と訳するそうだ。
この映画の主人公は同性愛のカップル。
一人は仕事では仮面を被って真面目に地方検事局に務めるポール、もう一人は歌手になる夢を抱きながら口パクショーに出演して日銭を稼ぐルディ。
そして彼らが「家族」になりたいと願うのはダウン症の男の子マルコ。
マルコは、麻薬中毒の母親に育児放棄に近い仕打ちを受けていた。
三人はマルコの母親の逮捕をきっかけに、まるで淋しさや欠乏感を埋めるように急速に結びついていく。


人が生きて行く上で大切なことというのは、実はとてもシンプルなものなんだと思う。
好きあった人と一緒に暮らすこと、毎日を笑顔の中で安心して過ごせること。
ところが、私たちが生きている社会はシンプルなものをシンプルなまま謳歌させてはくれない。
ポールとルディがマルコを引き取るために立ちはだかる手続きと許可、書類とサイン、裁判と証言…。
面倒なこれらの作業を、今回より面倒にしてしまったのは、彼らが、当時の「社会」では正しいと看做されていない同性愛のカップルだったことだ。


家主や友人たち、仕事場の上司や同僚、周囲の人々は、彼らから見ると「異分子」である主人公たちをなんとか排除しようとする。
社会のルールを無視して生きているくせに権利だって?なんておこがましい!というわけだ。
そして排除するために、当事者であるダウン症の子どもが幸せかどうかという視点は、すっぽり抜け落ちてしまう。
これが、当時の社会では一般的だと認められていた異性愛者のカップルだったらこの結論は違っていたのか…そしてマルコが麻薬中毒者のダウン症の子どもでなければ…おそらく違っていたのではないかと思う。
偏見や思い込みというのは、かくも人の視野を偏狭にしてしまうのだ。


偏見や思い込みによって視野が偏狭になる、その代表は、偏見によって自分の「仕事」の本来の目的を歪められてしまう裁判官たち…。
彼ら、彼女らが曇りのない目でマルコや彼の置かれた状況を眺め、「マルコが安全に幸せに暮らすためにはどうしたらよいのか」を決定するという自分たちの責務を果たしていれば、ポールたちとは暮らせないまでも、マルコの未来には違う結果があったかも知れない。


法律を厳守すること、決まりを守ること、手続きを踏むこと、すべては人間の権利や自由を守るという崇高な目的から規定されたことで、それは大部分のケースではその目的を果たしているのは間違いない。
なのに、その厳格さや複雑さが時に、幸せとか愛とか私たちが一番大事に思うシンプルなものを台無しにしてしまう、という皮肉。
そして「法律を厳守すること」「手続きを守ること」などという複雑な仕組みが、自分たちの偏見を隠すために格好の言い訳となるということを裁判官らは自覚しているだろうか。


そんな中、心に残ったのは、マルコの教師である女性の裁判での証言のシーン。
彼女は執拗に主人公たちの「異常」を指摘しようとする当局の代理人に対してこう証言する。

「私は生徒の父兄の性的嗜好には興味がありません」

そう証言する彼女は、教師としてのシンプルな理想「生徒の幸せに適うのはなにか」を追求している人だった。
なんてかっこいい。


もちろん先入観にとらわれない、偏見に惑わされないということが難しいのことは分かっている。
だけど、心しておくこと。
まず、自分は間違っているかも知れない、自分は偏見に捉われているのかも知れないという恐れを持つこと、曇りのない目で状況を観察すること、好悪の感情に引きずられないこと。
複雑な仕組みの中で自分を見失わないこと。


とは言え、この世には複雑な仕組みがたくさん溢れていて、人を幸福にしない装置として立派に機能している。
心くじけそうになるけれど、そんな時は控訴審を担当した弁護士の言葉を思い出すことにしよう。
主人公たちの「正義なんてない」、というつぶやきに、彼が「正義なんてないって法律学校で習わなかったのか?」と返し、そして言うのだ。

「それでも戦うんだよ」