「ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅」 レイチェル・ジョイス 著

記憶を共有する人を喪うということ、もう新しい関係を築くチャンスを喪うということの哀しみと取り返しのつかなさを思い知る。


先日、父の施設への引越しが済み、ようやく肩の荷が軽くなった。
様子を見に行くと、まだ落ち着かないようで心細さを訴える。
大丈夫だよー、と言いながら、私は思う。
この好々爺は誰だろう、うちの父がこんなに可愛げのあるおじいちゃんのわけはないと。


父が元気な頃は、顔を合わせれば口論ばかりで最後は必ずと言っていいほどけんか別れ。
ところが数年前、病気で倒れた父は、都合良く自分のしてきたことをほぼすっぽり忘れて勝手に子供に戻ってしまい、そうしてなぜか家族の中で一番諍いを繰り返していた私がその庇護者に収まることになった。
やっと穏やかな時間が過ごせるようになったのに、なぜか時々、無性に悲しくなることがある。
何時間にも渡って繰り返した議論、あの感情的なやり取りの記憶はこの先、私だけが一人きりで持っていなくてはならないのか。


本書の主人公、ハロルド・フライは65歳。
半年前に退職し、妻モーリーンと2人で老後を過ごすはずだった彼が、思いもよらない巡礼の旅に出ることになったのは、一通の手紙がきっかけだった。
その手紙の送り主は、かつて勤務先のビール会社でハロルドの同僚だったクウィーニー。
そこには、彼女が末期ガンに冒され余命いくばくもないことが書かれていた。
ハロルドは、彼女にお見舞いの手紙を出すためにポストを目指して家を出る…そして、普段着のまま、デッキシューズで、携帯電話も持たずに、歩き出してしまうのだ。
クウィーニーがいる1000キロ余り先のホスピスを目指して。


旅のきっかけの一つは、ふと立ち寄ったガソリンスタンドの店員から聞いた「末期ガンを患ったおばが『信じる気持ち』によって病状が改善した」という話。
なぜかその話によって、彼は突然の感情のうねりに襲われる。
そして信じてしまう。

「おれが歩きつづければ、彼女は生きつづける。おれは彼女を救いにいくんだ」

と。
そして87日に及ぶ彼の巡礼の旅が始まった。


そうは言っても、当然ながら65歳の彼の旅は容易なものではない。
疲労で体はこわばり、足はマメがつぶれ、靴はボロボロ、お金だってどんどん減っていくばかり。
しかし何よりもつらいのは、一人で歩き続ける彼の心が、蓋をしてきた過去の記憶を次々に開け始め、孤独だった子供時代や妻、息子との確執と悲劇を突きつけること。
彼の結婚生活は決して成功しているとは言えなかったし、彼は決していい父親とは言えなかった。
そしてまた、一人で自宅で待つモーリーンもまた、ハロルドを失う恐怖や自分のしてきたことと向き合うことから逃れられなくなるのだ。


時に絶望感や徒労感に襲われつつ、ハワードは巡礼の道の途中で様々な人々との出会いと別れを経験する。
優しい人、怒っている人、迷っている人、悲しむ人、待っている人、絶望する人…。
そして、彼は人々から大切なことを学んでいく。
彼にとっての聖地とはクウィーニーのいるホスピスだけではなかったのだ。
旅の途上で出会う名もなき市井の人々の生きる場所もまた、彼にとって何かを学ぶ聖地だったのだ。


いつしかハロルドは、人々のささやかな営みとそうした営みに付随する孤独さこそが自分の胸を打ち、やさしい気持ちにさせてくれることを学んでいた。この世は片足の前にもう一方の足を置く人々で成り立っている。

いまやハロルドは、人はみな同じであり、同時に唯一無二の存在であるという事実、そしてそれこそが人間であることのジレンマだという事実を受け入れることができるようになっていた。

ハロルドの脳裏に、食べ物を恵んでくれたあの女性のやさしさが、そして、マルティーナのやさしさがよみがえった。彼女たちは彼が遠慮したにもかかわらず、慰めと休息の場を提供してくれた。そんな彼女たちの親切を受け入れたとき、彼は新しい何かを学んだ。受け取ることは与えられることと同じように贈り物なのだということを。なぜなら受け取ることも与えることも、ともに勇気と謙虚さの両方を必要とするからだ。


歩くこと、一人で考えること、本を読むことは、自分自身と対話をするということかも知れない。
ハロルドもモーリーンも、これからを生きるために必要な自省のきっかけを与えられ、そして巡礼の果てに、これから自分が生き続けるための拠り所、よすがを得る。

「その日、その日を大切に」

愛し合うのも憎み合うのも、一人ではできない。
記憶を共有する人を喪うということ、もう新しい関係を築くチャンスを喪うということの哀しみと取り返しのつかなさを思い知らされた本だった。


引越しの日に、父の枕元にあったカレンダーをふと見ると、私が今まで見舞いに来た日に二重丸がついていた。
切なくて優しい気持ちが湧きおこる。
父の中に眠る「あの父」が復活したら、私の世話になっていることにプライドが傷つけられ、憤死してしまうに違いないのに。
けんかばかりしていたあの憎たらしい父に会いたい。
あの頃の父に、もう一度会って思い切り喧嘩して、俺が悪かったと言わせたい。
私も悪かったと謝りたい。

ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅

ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅