「辞書になった男 ケンボー先生と山田先生」 佐々木 健一 著

人が人に何かを伝える手段、それは「ことば」。「ことば」に魅入られた2人の先生の辞書ものがたり。まさに「字引は小説より奇なり」。


先日から「虚力」という言葉が私の中で流行している。
流行というのは変な表現だが、なにかと頭に浮かんでくるこの状態は「流行」というのが一番ふさわしい。
この言葉を初めて見たのは、STAP細胞の件で研究者が会見した後、ネット上でのことだった。
それによると、虚力というのは、巷間で最近よく耳にする「女子力」とか「老人力」、「逆境力」 のように「なになに力」とでも名付けないことには計測不可能な力のことのようだ。


職場でそのことを話していたら、同僚が「それ毎日のように娘が言ってますよ」と言う。
聞くと中学2年生の娘さんが「なんで猫かぶっている人ばかりが先生に褒められるの?」「なんで可愛いだけで性格が悪い女の子が人気あるの?」 と聞くそうだ。
あーなるほど…確かにあるある。
ニュアンスは分かるんだけど、どう表現したらいいのか困る言葉。
調べてみると、この「虚力」という言葉、手元にある三省堂国語辞典(第四版)には載っていない。
もし私が辞書編纂者だったら「虚力」にどんな語釈を採用するだろう。


さて、辞書編纂者と言えば。
本書の主人公、見坊豪紀(けんぼうひでとし)先生と山田隆雄先生の二人は国民的国語辞書とも言うべき「三省堂国語辞典」、「新明解国語辞典」をそれぞれ編纂した、辞書の世界では二大巨星ともいうべき存在である。
二人は東京帝国大学文学部の同級生で、ともに新たな国語辞書「明解国語辞典」初版の編纂に関わり、その後も同辞書の改訂作業に長年従事した、いわゆる同志というべき間柄だ。


ところが、この「同志」がある時ーーーそれは「昭和47年(1972)年1月9日」と日付まで分かっているのだがーーーを境に関係を断ち、ともに同じ辞書を編むことをやめてしまったのだ。
原因はなんだったのか、そしてその後のそれぞれの心情はどのようなものだったのか。
著者はまるで探偵のように、複数の関係者に聴き取りをし、それぞれの辞書に掲載された言葉を丁寧に解きほぐすことで、これらの謎を解き明かそうとする。
その過程はスリリングで、我が国における辞書の歴史と、2人の偉大な辞書編纂者のそれぞれの歩みも興味深く、一気に読み通してしまう。


山田先生の編纂した「新明解国語辞典」と言えば、この辞書にまつわる話題を集めた「新解さんの謎」という本があった。
あの本で、新明解国語辞典の独特の語釈を読み、「辞書にだって人格がある」と感じた人も多かったのではないだろうか。
語釈とともに用例にもちょっと意味深な文章が並び、時には唸り、時には同意し、時には感動する。
まるで辞書編纂者と会話ができそうな、そんな不思議な辞書、それを編纂したのが山田隆雄先生だ。


一方のケンボー先生。
山田先生とは対照的に、ケンボー先生の三省堂国語辞典の特徴は次のように表現される。

『三国』の特徴は、「客観的」で、中学生が読んでも理解できる「短文・簡潔」解説、そして辞書界において随一の「現代的」な辞書であるという点だ。

『三国』は、どんなことばを掲載するかという判断が最も先鋭的で「今」という時代の空気を敏感に捉えている。実際、他の辞書には載っていないことばが、『三国』には収録されている例が数多くある。

言葉のプロも高く評価するという三省堂国語辞典
その源泉となるのはケンボー先生が生涯かけて集め続けた単語の用例を採集した145万枚ものカードだ。
今も三省堂の資料室に眠るケンボー先生の145万例のカードを見て、現在の国語辞典の編纂者が嘆息をつき、こう言う。

見坊先生はもはや’’神”です。辞書に魂を売った人です。


ケンボー先生のこの145万例のカードのエピソードを読んだ時、「虚力」という言葉の意味が分かったような気がした。
実力とは、それを前にすると人は沈黙し、嘆息するしかないもの。
そう、実力というのは、他人を謙虚にさせる力がある。
ところが、虚力を前にすると、人はなぜか「どうしてあんな人が」と批判し、その浅はかなふるまいに「それみたことか」と罵り、饒舌になってしまうのだ…。
うーん、やっぱりうまく説明できない。


言葉というものは難しいツールだ。
人の複雑な心を限られた語彙で表すことは困難だし、使い手の技術が未熟なために誤解を招くことだってある。
また、本書の本文や著者が巻末に記したTV放送後に明かされた新事実を読むと、自分の利益を守るため、保身のため、そして軽率さによって人と人との間を分断するのもまた言葉なのだと思い知らされる。
「ことばは、不自由な伝達手段である」という山田先生の言葉がつくづく身に沁みる…。


よのなか【世の中】
一 同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織り成すものととらえた語。
愛し合う人と憎み合う人、
成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、
常に矛盾に満ちながら、
一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。 (『新明解』三版)


だけど一方で、こんな語釈を読むと、ことばの可能性に希望を見出さずにはいられない。
ことばを使って、気持ちを希望を共感を人に伝えたいと願わずにはいられない。
生涯をかけて辞書を編み続けたケンボー先生と山田先生もまた、そうだったのではないだろうか。