「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ エル・システマの奇

「世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ 〜 エル・システマの奇跡」 トリシア・タンストール 著

貧困と犯罪から子どもたちを救うため、何ができるのか。音楽の力を信じ、それによって社会を変革しようとする革命家、アブレウ。彼の作り上げた音楽教育プログラム「エル・システマ」の歴史とその軌跡。


学生時代、演奏中に「行ってしまった」ことがある。
何度も一緒に演奏した曲。
その日、その時だけなぜか自分が演奏しているとは思えないほど指が踊り、全員の音が体の中に溶け込んできた。
指揮が、音が、リズムが、空気が、そして自分が、溶けて混ざりあって「音楽」になる、全員の息遣いまで「分かる」感覚。
演奏が終わっても、夢から覚めやらず。
そしてずっと覚めないでと願った。


あれから、もう一度あの感覚を味わいたくて、介護の関係で中断する2年前まで数年間、仕事の傍ら先生に師事した。
だけど、あの日、あのメンバーで奏でたあの音楽は、もう再現できない。
今の私はあの頃のようには演奏できないし、メンバーの何人かとは連絡が途絶え、先輩の一人は昨年亡くなってしまった。
それが音楽の一回性なのだ。
儚い、だけど強い音楽の力。


音楽の力を信じ、ついには革命を起こしてしまった人がいる。
彼の名はホセ・アントニオ・アブレウ
ベネズエラの経済学者であり、政治家であり、音楽家であり、そして音楽の力で世界を変えようとする革命家である。
本書は、このアブレウによって行われつつある音楽による革命について紹介している。


アブレウは、貧困と暴力、犯罪から子どもたちを救うために、35年をかけてベネズエラ全土に音楽教室とユース・オーケストラを擁する大きなネットワークを作り上げた。
そこに関わる子どもたちはおよそ37万人(全人口が3000万人に満たない国で、だ)。
1歳から学べるという音楽教室に、ベネズエラ全土から、時には半日をかけて子どもたちが通ってくるという。


彼の作り上げたネットワーク、「エル・システマ」(通称システマ)の代表的な楽団であるシモン・ボリバル響は、1993年、世界の青少年にとって模範的な存在であると評価され、ユネスコの国際音楽賞を受賞した。
ステマによって育まれ、学んだ指揮者グスターボ・ドゥダメルは、国際コンクールで最優秀賞を獲得し、20代でロサンゼルス・フィルの音楽監督に就任し、2011年には「グラモフォン」誌の年間最優秀アーティストに選ばれ、「100年に1人の天才」「バーンスタインの再来」「クラシック界のスーパースター」と様々に形容されている。
ドゥダメルばかりではない、他にもたくさんのシステマ出身者たちが輝かしい賞やキャリアを手にしている。
そして、現在世界30ヶ国でこのシステマを倣ったプログラムが実践されているという。


当然のことながら、学んだ者全員が音楽家になれるわけではない。
しかし、アブレウの目的は音楽家を育てることではない。
彼がシステマを作った最大の目的は、以下の言葉に表されている。


実際に演奏家になる子は少ないでしょう。でも、彼らは「市民」になるんです。


合奏をしたことがあるだろうか。
楽団で演奏した経験がなくても、リコーダーでもいい、木琴でもいい、合唱でもいい。
他の人の音と自分の音が重なり、分厚い層を形成する経験をしたことはないだろうか。
そのような経験があれば、自分が音楽の一部に参加しているということ、自分の吹いた音が「音楽」の一部になっているということを意識するということが分かるのではないだろうか。


間違った音を吹いたり、勝手なリズムを刻むと「音楽」はたちまち崩れてしまう。
プレイヤーとしてオーケストラに参加するということは、「市民が社会に参加すること」の一つの練習型、ヴァリエーションとなっている。
つまり、一人ひとりが調和した音を奏で、全員で美しい音楽を作り出すという過程は、人と人が助け合い成長し合って成熟した社会を作り出すためのレッスンだとアブレウは言うのだ。


楽器を習い、合奏を経験することは、彼らに人間としての自尊心を与えたのです。たとえ本人たちには、それがなんであるかはわからなかったとしても。


私にとってこのオーケストラは、子どもたちが人間としてより大きく成長することを促すための手段にほかなりません。だからこそ、芸術振興ではなく、音楽を通して人を成長させるプログラムなのだと言い続けているのです。これまでに起こった奇跡のような数々の出来事は、このゆるぎない考えがあったからこその結果なのです。


アブレウが設立した音楽大学は6年以上かけて、単位が取ることができる。
子どもが、若者が、時間にも金銭面でも余裕を持ってゆっくりと学び続けられるように。
全土に複数存在する各楽団は、団員たちに月給が支払われ、福利厚生も保障されている準プロフェッショナルな団体である。
楽器はシステマ内の工房で手作りされ、修理される。
ステマで音楽を学んだ者の中には、その工房で職人の道を選ぶ者もいる。
また法律を学び、経営を学び、その後、システマの運営に関わるようになった者もいる。
本書に登場する誰もが、システマによって大きく人生の航路を変化させている。
ステマは、子どもたちを変え、家族を変え、社会を変えるプログラムだと言われるが、なによりも人間の生き方を変えるプログラムなのだ。


本書は、久しぶりに興奮した本なのだけれど、一つ残念なのは題名。
最後まで読み通して、私は一度も彼らを貧しいとは思えなかった。
むしろ豊かな人生を生きていると羨ましくなった。
原題は「 Changing Lives 」。
力強く、エル・システマの真髄を言い当てている素晴らしい題名ではないかと思うのだが、もっと相応しい日本語訳はなかったのかなあ。


今年初めての出張で、行きの旅の友となった本書。
涙がこぼれて仕方がなかったのだけれど、堪えていたら鼻が詰まってパニックになりかけ、隣席の男性からお茶を頂いた。
この場を借りて、申し訳ありません。
帰りの旅の友でも同じ目にあったのだけれど、それはまた別の話に。


世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ: エル・システマの奇跡

世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ: エル・システマの奇跡