「BORN TO RUN 走るために生まれた ー ウルトラランナー VS 人類最強の”走る民族”」 クリストファー・マクドゥーガル 著

もしかしたら私たちは、「走る」という本来しごく単純で楽しいものを、複雑にそして苦しいものへと変えてしまったのかも知れない。

時折、同じ夢を見る。
広い運動場のような場所を思い切り走っている夢だ。
私の足は軽い。
風が身体を包み込むように後ろに流れていく。
全速力で走っているのに私の息は軽く、身体はまるで羽根のようだ。
どこまでもどこまでも走って行けると確信する。
心の底から幸せを感じて、私は笑う。
…そこでいつも目が覚める。
笑顔のまま、重い身体と痛む膝を意識しながら…。


夢だと思っていた。
笑いながら、心から楽しく走ること。
TVで見るマラソンや駅伝で、選手たちは本当に苦しげな顔をしているから。
ところが世界には、走ることを自然に、そして心から楽しんでできる民族がいるのだという。
その名は「タラウマラ族」、メキシコの山岳地帯に住む少数民族だ。
彼らは幼い頃から裸足やごく薄い皮のサンダルばきで厳しい自然の中を駆け巡る。
その脚力もさることながら、すごいのはその持久力。
部族内で行われるレースは、まる2日間に渡って続けられ、あるチャンピオンは約700キロをノンストップで走り続けたのだという。
700キロと言えばNY市内からデトロイトの手前までだ。


著者は自分の脚の故障をきっかけに、どうしたら痛みのない健康な脚とスタミナを身につけることができるのかを探るため、幻の民族と言われるタラウマラ族を探し始める。
雑誌の小さな記事から始まったその旅は、タラウマラ族と彼らの友となった白人カバーヨ・ブランコとのエピソードに、またシンプルで美しいはずの「走ること」の世界に「$」を持ち込み堕落させたシューズメーカーの話に、そして人類と走ることとの切っても切れない繋がりにと、多彩な広がりを見せる。
そして、旅は最後に、当代随一のウルトラランナーたちとタラウマラ族チームとの過酷なウルトラマラソンレースへとたどり着く。
ウルトラマラソンと呼ばれる100km、アメリカ横断4600km、24時間レース、砂漠越えなどという過酷なレースを勝ち抜いたウルトラランナーたちとタラウマラ族、一体どちらが優れたランナーであるかを明らかにするために。
集まったウルトラランナーの一人ひとりのこれまでの人生、麻薬組織の侵攻や(この著者たちも含めた)現代社会との交流を通じて失われゆくタラウマラ族独自の文化などを描きつつ、ついにレースは幕を開ける。
なんて見事な構成。


走ることと人間との関係について考えながら本書を読んでいると、何度か内田善美さんの「星の時計のLiddell」を思い出し、途中でこちらを再読してしまった。
走ることで内省を続け、本来の自分を取り戻したカバーヨのエピソードは、「星の時計」の登場人物の一人が語る「ジョギング中に自分の内宇宙に囚われ精神病院に入ってしまったジョガーの話」を思い出させた。
ネットでタラウマラ族の「その後」を検索し、彼らの休まず走り続ける能力をメキシコの麻薬組織が利用して…というNewsweek紙の記事を見つけた時は、「星の時計」の葉月さんの「どうして私たちの精神は純粋に志向することができずに、この頭脳はこんな風にいつも不鮮明なものを作ってしまうのかしら」という台詞を思い出す。
おそらく本書の底流にある自然回帰とか失われゆくものへの愛、人間の隠された能力、といったキーワードに私が勝手に共通点を見出してしまったのだろうが、なにより、私自身が「好きな」種類の本なのだろう。


本書は、いかようにも読める本だと思う。
単純に「走るって素晴らしい!」と感動するもよし、失われゆく人類の「走り」の能力を嘆くもよし、カバーヨの人生の「やり直し」に涙するもよし。
そして、私もそうだったように、本を閉じると、すぐ!今すぐに!走り出すのもよし、である。