「ゴールデンボーイ」 スティーヴン・キング 著

モダンホラーの帝王スティーヴン・キングが描くバラエティに富んだ中編集、春編と夏編のテーマは「希望」と「転落」。

本書「ゴールデンボーイ」は、スティーヴン・キングの中編4作を2冊に分冊したうちの1冊で、春編「刑務所のリタ・ヘイワース」と夏編「ゴールデンボーイ」が収められている。
この本は、「スタンド・バイ・ミー」(秋編の「スタンド・バイ・ミー」、冬編の「マンハッタンの奇譚クラブ」収録)と並んで、何度読み返したか分からない。
特に思春期の切羽詰まった時期は、私はキングに助けてもらってたんだなあと今更ながら感じたりする。


刑務所のリタ・ヘイワース
この作品は、映画「ショーシャンクの空に」の原作と説明した方が早いかも知れない。
妻殺しの無実の罪で刑務所に入った男が、過酷な環境の中で、所長の横暴や刑務官たちの虐待に耐えながら、なぜ正気と希望を持ち続けることができたのか。
これは、映画「パピヨン」のキング版、というところだろうか。


だけど、「刑務所のリタ・ヘイワース」は、単なる脱獄物語ではない。
人間にとって、1度付けられたくびきを解き放つことがいかに難しいかを描く物語だ。
そして、その解放のためには、自分を信じてくれる誰かが必要だということを示す物語でもある。
だから、私にとって、この作品の一番の主人公は、彼を信じて待っていてくれるアンディのために「記憶がない」海、太平洋の見えるあの町に旅立ったレッドなのだ。


実は、つい最近、あるTV番組を見てこの話のことを思い出した。
それは、サッカー日本代表の本田選手のドキュメンタリー。
彼がこんなことを言っていた。

信じることっていうのは僕にとって希望なんですね
信じれなくなったときに希望の光は見えなくなる

人って誰しもがうまくいかなかったときとかに
ちょっと疑うと思うんですね
そのときにいかに自分を信じることができるか

信じるっていうのは本当に希望そのものですよね

信じるということがイコール希望であると語る本田選手。
その言葉は、逆に彼が身を置く状況が、いかに自分を信じることが困難なところであるのかを表している。
それでもこう言える彼は、本当に強い人なのだろう。
この話のもう一人の主人公、アンディのように。
彼もまた、信じるということが果てしなく困難な状況の中にあって、周りの誰もが信じることのできなかった奇跡を27年間信じ続けた。
そしてこう言ったのだ。

忘れちゃいけないよ、レッド。希望はいいものだ、たぶんなによりもいいものだ、そして、いいものはけっして死なない。

いいものはけっして死なない。
誰よりも怖い小説を書き、眠れない夜を提供するモダンホラーの帝王キング。
それでも彼が大好きなのは、こんな言葉をさらりとプレゼントしてくれるからなんだろう。
ありがとう、キング様。



ゴールデンボーイ
眉目秀麗で成績優秀、どこから見ても全米代表、という「ゴールデンボーイ」トッドが、近所の目立たない老人に近づいていくところから物語は始まる。
その老人は、実は元ナチ将校ドゥサンダー、現在はアメリカで過去と身分を隠して住んでいる。
トッドは彼が戦争中に行った残虐行為をきかせてもらうために彼の元に通ううち、いつしかともに人間の持つ残酷さと暴力の魅力に魅入られていく。


この話を読むと、必ずと言って良いほどニーチェの言葉を思い出す。
きっと、そんな人が他にもいるだろう。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ

最初は、深淵というのはドゥサンダーで、覗き込んだのは、主人公であるトッドだと思う。
だけど、読んで行くうちに、だんだん分かってくる。
トッドと共にドゥサンダーもまた「深淵をのぞき込んだ者」なのだ。
そして、やがて2人は深遠に飲み込まれ、互いに残酷さを競い合うようになる。
そもそも深淵という怪物が絶好の獲物を手放すわけがないのだから。


ところどころ、トッドの両親のあまりの凡庸さ、そしてそれゆえのあまりの鈍感さに腹立たしくなることもある。
だけど、善良なるものたち、これが私たちでもあるのだろう。
私たちには深淵をのぞいた者が見た光景は知ることができないのだから。


今も全米のあちこちで次々に起こる少年たちの銃乱射事件。
彼らもまた、トッドと同じセリフを叫んでいるのかもしれない。

「おれは世界の王様だ!」

深淵は実は人の近くにいる。
獲物たちに、のぞいてもらうのを待っている。
私だけはのぞくことがないとは決して断言できない。
むしろ、時と場合によっては、自分も深淵に引き込まれる、それもいとも簡単に。
私はそう思う。


キングの書いた本当の恐怖は、おそらくそこにある。


ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)

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