「殺人者の娘たち」 ランディ・マイヤーズ 著

父親が自分の母親を殺したという重い事実を抱えて、姉妹が過ごした30数年。それぞれが苦しみながら探す、人を憎むということ、人を許すということ、人を愛するということの答え。

この本は、殺人者の娘たちとして、それも父親が母親を殺したという重い事実を抱えて生きてきた姉妹の30年以上にわたる来し方が描かれている。
姉のルル(ルイーズ)は、酔った父親を家に入れてしまったことをずっと後悔し、父親を憎み、否定し、捨てることで自分の人生を確立させようとする。
妹のメリーは、母親に続いて自分を刺し殺そうとした父親を見捨てることができず、刑務所に彼を訪ねて交流し支え続ける。
否定し憎み続けるか、受容し愛そうとするのか、姉妹は父親に対して対称的な姿勢を選びながら、どちらも決してその生き方に100%満足しているわけではない。


自分が酔った父親を家に入れてしまわなければ、母親は殺されなかったのではないか、妹は重傷を負わなかったのではないか。
ルルはその思い、罪悪感から解放されることはない。
それを償うかのように妹を家族の中に加え、何くれとなく世話をしてしまう。
また自分の子供達を常にあの事実から遠ざけようと苦しい嘘を重ねてしまう。


メリーは自分を刺し殺そうとした父親を見捨てることができず、憎む代わりに愛することを選ぶ。
そして、父親と同じ犯罪者、女性や子供に暴力をふるい家庭を破壊する怪物、モンスターたちのカウンセリングを生業とする。
父親からは天使と称され、クライアントたちからは感謝の言葉を捧げられるメリー。
しかし、彼女自身の生活には潤いはなく、男性とも安定した関係を築くことができない。


同じ不幸に遭遇しながら、姉妹は別々の生き方を選んだ。
彼女たちは、互いが互いの失った何かを象徴している。
そして、互いに愛し合いながらも、完全には相手の生き方を理解し肯定できない。
人には、その人にしかできない生き方というものがあるのだ。


かつて、仕事の関係で受けたカウンセリングの講座で「憎しみを手放しなさい」「憎しみを解放することであなた自身が救われるのです」という趣旨の講義を聞いた。
また同じ職場の同僚がよく「あなたを傷つけた相手を哀れに思いなさい。許せるようになるから」と言ってくれる。


だけど、いつも思う。
憎しみって忘れないといけないのだろうか、手放さないといけないのだろうか。
どれも私の一部で、私を作っているものなのに。


どうやら私には、憎しみを手っ取り早く解放することも、相手に許しを与えることも向いていないようだ。
精々出来るのは、憎しみを何処かにしまって棚上げしておくぐらい。
喜びや愛情や幸せの感情が、「憎しみなんてたいしたものではない」、と感じさせてくれるぐらい貯まったら、棚上げしたそれを解放できるのかもしれないが。


果たして、ルルは父親に会い、許すことができるのか。
メリーは父親と姉から離れ、自分一人の幸せをつかむことができるのか。
人の生き方に正解というものはなく、それぞれに相応しい時期に相応しいやり方で、憎しみや葛藤を乗り越え、受容すればいいんだ。
そう思わせてくれるラストシーンに、DV加害者と被害者双方のカウンセラーをしていたという作者の、複雑なものを複雑なままに受け入れようとする深い洞察力と優しさを感じた。



殺人者の娘たち (集英社文庫)

殺人者の娘たち (集英社文庫)